学問の仕方・教養の身につけ方
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本を読むだけじゃ全然知識として定着しない
本をノートに要約したって結局それは本に書いてることだから二度手間
知識人の話を聞くのも本を読むのと同じ
受験のための勉強じゃない、教養のための勉強ってどうすればいいですか?
テストの点数のための勉強じゃない、学問を修めるための勉強ってどうすればいいですか?
本をノートに要約したって結局それは本に書いてることだから二度手間
知識人の話を聞くのも本を読むのと同じ
受験のための勉強じゃない、教養のための勉強ってどうすればいいですか?
テストの点数のための勉強じゃない、学問を修めるための勉強ってどうすればいいですか?
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すでに教養(主義)は随分前に死亡宣告を受けていますね。
もともと教養は、受験のための学問でもなく、金を稼ぐために役に立つ実学的知識でもない。
それは、もともと文化の享受を通じた「人格」の向上という目的を持っていましたね。
旧制高校や帝国大学の学生文化などがまさにそうでした。
日本の代表的な教養小説に『三太郎の日記』がありますね。
こんなのを読むと教養(主義)というものがどういうものだったか、よくわかります。
ドイツではもともとビルドゥングスロマーンといって、
ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの・・・』やトーマスマン『魔の山』などが有名ですね。
これらに共通するのは、主人公が様々な経験を通じて人間的・人格的に成長していく(自己形成する)という構図です。
で、現代です。(特に大学の大衆化以降)
「人格」を磨くとか向上させるなんていうことが、とても意味・価値があることとは思えなくなってしまった。
わかりやすく言っちゃうと、
「哲学?文学?芸術?それ何の役に立つの?意味あるの?それで人生よりよくなるの?」
「そんなモン知らなくても人生楽しく暮らせるじゃん」というのが、大学で教養科目を学ぶほとんどの大学生のホンネですね。
つまり、教養は「リア充」にはつながらず、下手をするとその対極にあるものとすら考えられたりする。(コミュ力不足の学問オタク?)
もっと言えば、
「哲学や文学に詳しいのと、AKBに詳しいのと何が違うの?どちらも実生活には何の役にも立たないオタクじゃん?」
というように、知の領域に凹凸がなくなり、すべてがフラット化するという現象が(特にポストモダンの議論以降)起こっている。
そんな時代に教養を説く意味は何か?
それを考えるにはまず、筒井清忠『日本型「教養」の運命』や、竹内洋『教養主義の没落』などが必読文献ですね。
ちなみにこのスレで話題になっている「本の読み方」については、「本の読み方を説く本」というのがありますので、まずはそういうのを読むといいかもです。
自分のおすすめは、内田義彦『読書と社会科学』や外山滋比古『思考の整理学』などです。どちらも古い本ですが今でも十分読むに値する本ですね。
もともと教養は、受験のための学問でもなく、金を稼ぐために役に立つ実学的知識でもない。
それは、もともと文化の享受を通じた「人格」の向上という目的を持っていましたね。
旧制高校や帝国大学の学生文化などがまさにそうでした。
日本の代表的な教養小説に『三太郎の日記』がありますね。
こんなのを読むと教養(主義)というものがどういうものだったか、よくわかります。
ドイツではもともとビルドゥングスロマーンといって、
ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの・・・』やトーマスマン『魔の山』などが有名ですね。
これらに共通するのは、主人公が様々な経験を通じて人間的・人格的に成長していく(自己形成する)という構図です。
で、現代です。(特に大学の大衆化以降)
「人格」を磨くとか向上させるなんていうことが、とても意味・価値があることとは思えなくなってしまった。
わかりやすく言っちゃうと、
「哲学?文学?芸術?それ何の役に立つの?意味あるの?それで人生よりよくなるの?」
「そんなモン知らなくても人生楽しく暮らせるじゃん」というのが、大学で教養科目を学ぶほとんどの大学生のホンネですね。
つまり、教養は「リア充」にはつながらず、下手をするとその対極にあるものとすら考えられたりする。(コミュ力不足の学問オタク?)
もっと言えば、
「哲学や文学に詳しいのと、AKBに詳しいのと何が違うの?どちらも実生活には何の役にも立たないオタクじゃん?」
というように、知の領域に凹凸がなくなり、すべてがフラット化するという現象が(特にポストモダンの議論以降)起こっている。
そんな時代に教養を説く意味は何か?
それを考えるにはまず、筒井清忠『日本型「教養」の運命』や、竹内洋『教養主義の没落』などが必読文献ですね。
ちなみにこのスレで話題になっている「本の読み方」については、「本の読み方を説く本」というのがありますので、まずはそういうのを読むといいかもです。
自分のおすすめは、内田義彦『読書と社会科学』や外山滋比古『思考の整理学』などです。どちらも古い本ですが今でも十分読むに値する本ですね。
>>58
確かに。今は日本も格差社会ですもんね。
とはいえ、日本のアッパークラス(富裕層)にエリート文化と言えるほどのものがありますかね?
まさに大学の大衆化による教養主義の没落によって、エリート文化が衰退・消滅しつつある日本に
階級社会フランスの文化資本の議論がどのくらい当てはまるでしょうか?
とある慶応のセンセイが、三田で『学問のすすめ』を読んだことのある学生を調べたら1割にも満たなかったという話を聞きましたw。
話をもっと具体的にしましょう。
哲学の話があがっていますが、たとえば哲学の話に限定したとき。多くの人に聞いてみたいですが、
・現在、日本のアッパークラスの人間の多くが教養として読んでいると思われる哲学書が存在しますか?
(かつては西田の『善の研究』なんかは必読書でしたね。サルトルや実存主義がブームの時代もありました。当然マルクスも。
これらを読んでいない学生は「無教養」と蔑視されましたね。いま、このような「正統文化=ハイカルチャー」が日本に存在するでしょうか?)
・教養として「この哲学書を読むべき」みたいなものがあるとしたら、誰のどんな著作があげられるでしょう?
・例えば、「古典中の古典であるプラトンぐらい読むべきだ」というとして、「読んでどんなイイコトあるの?」と聞かれたらどう答えましょう?
・それは、アニメオタクが「今期は、このアニメを見るべきだ」と押し付けてくることと何が違うのでしょう?
このスレで、学問したい、教養を身につけたいと考えている方々は、
哲学書に限らず、どんな本を読みたい、読むべきだと、考えているんでしょう?
そして、それは何のためですか?何の役に立つからですか?
①特に「何のために」というものは存在せず、純粋に自分が好きだから学んでいる趣味のようなものですか?
②仕事や(仕事上の)つきあい・社交などに役立つ実学としてですか?
③勝ち組になるための資源(リソース・文化資本)として得だからですか?
④明和で半端な知識をひけらかし偉そうにしたいからですか?w(ニーチェはこういう人物を教養俗物と呼びましたね←ってな具合の知識のひけらかしw)
⑤それとも、昔のように読書を通じて人間形成する(人格を向上させる)ためですか?
・・・
そもそも教養とは何でしょうか?
確かに。今は日本も格差社会ですもんね。
とはいえ、日本のアッパークラス(富裕層)にエリート文化と言えるほどのものがありますかね?
まさに大学の大衆化による教養主義の没落によって、エリート文化が衰退・消滅しつつある日本に
階級社会フランスの文化資本の議論がどのくらい当てはまるでしょうか?
とある慶応のセンセイが、三田で『学問のすすめ』を読んだことのある学生を調べたら1割にも満たなかったという話を聞きましたw。
話をもっと具体的にしましょう。
哲学の話があがっていますが、たとえば哲学の話に限定したとき。多くの人に聞いてみたいですが、
・現在、日本のアッパークラスの人間の多くが教養として読んでいると思われる哲学書が存在しますか?
(かつては西田の『善の研究』なんかは必読書でしたね。サルトルや実存主義がブームの時代もありました。当然マルクスも。
これらを読んでいない学生は「無教養」と蔑視されましたね。いま、このような「正統文化=ハイカルチャー」が日本に存在するでしょうか?)
・教養として「この哲学書を読むべき」みたいなものがあるとしたら、誰のどんな著作があげられるでしょう?
・例えば、「古典中の古典であるプラトンぐらい読むべきだ」というとして、「読んでどんなイイコトあるの?」と聞かれたらどう答えましょう?
・それは、アニメオタクが「今期は、このアニメを見るべきだ」と押し付けてくることと何が違うのでしょう?
このスレで、学問したい、教養を身につけたいと考えている方々は、
哲学書に限らず、どんな本を読みたい、読むべきだと、考えているんでしょう?
そして、それは何のためですか?何の役に立つからですか?
①特に「何のために」というものは存在せず、純粋に自分が好きだから学んでいる趣味のようなものですか?
②仕事や(仕事上の)つきあい・社交などに役立つ実学としてですか?
③勝ち組になるための資源(リソース・文化資本)として得だからですか?
④明和で半端な知識をひけらかし偉そうにしたいからですか?w(ニーチェはこういう人物を教養俗物と呼びましたね←ってな具合の知識のひけらかしw)
⑤それとも、昔のように読書を通じて人間形成する(人格を向上させる)ためですか?
・・・
そもそも教養とは何でしょうか?
>>59
それも具体性の無い書き込み。
反論にはならんよ。
>>60
フランスが極端な格差社会とも思いませんが、
仰る通り、日本は唯一成功した社会主義国家と揶揄されるくらいで、
英米のような格差社会でないのは事実です。
とは言え、恒常的な読書習慣などはほとんど学歴と比例するもので、
階層の違いによる教養の差は少なくとも集団傾向として存在すると言わざるを得ないでしょう。
三田の学生の話が出てますが、
松下の創業者神話ではないのですから、学生の全てが福沢諭吉を読んでおく必要は余り感じません。
文学部に限定して、漱石鴎外を読んだことある人という質問にすれば
もっと割合は増えていたことでしょう。
もしかすると最近の学生の凋落は私が考えている以上に激しいのかもしれませんが(笑
それも具体性の無い書き込み。
反論にはならんよ。
>>60
フランスが極端な格差社会とも思いませんが、
仰る通り、日本は唯一成功した社会主義国家と揶揄されるくらいで、
英米のような格差社会でないのは事実です。
とは言え、恒常的な読書習慣などはほとんど学歴と比例するもので、
階層の違いによる教養の差は少なくとも集団傾向として存在すると言わざるを得ないでしょう。
三田の学生の話が出てますが、
松下の創業者神話ではないのですから、学生の全てが福沢諭吉を読んでおく必要は余り感じません。
文学部に限定して、漱石鴎外を読んだことある人という質問にすれば
もっと割合は増えていたことでしょう。
もしかすると最近の学生の凋落は私が考えている以上に激しいのかもしれませんが(笑
哲学を学ぶ意義や、教養を帯びる意味については
私に限定して問われたものでは無いかと思いますので、
あくまで私見と枕した上で書きますが、
日本のアッパークラスの人間が傾向として読んでいるような哲学書はおそらくないでしょう。
戦前まではデカルト、カント、ショーペンハウエルの
いわゆる“デカンショ”が流行ったわけですが、
エリート学生の多くが読んでいた、ということでは無かったそうです。
西田哲学についても同様で、いわゆるポストモダンの潮流の中で持て囃されたブームの一つであった側面も否定できないでしょう。
もちろん、京大の哲学研究科に在籍していて
西田幾太郎をかじったことすらない人は居ないでしょうが…。
そういう意味では多様化する価値観の中での知的会話を可能にする共通の認識として、「教養」があるとするなら、
それは「巨人・大鵬・卵焼き」ではなく、
「野球あるいはベースボール・相撲・スイーツ」と集合されるべきものです。
あるいはもっと広いのかも。
酒飲みとして共通認識を持つのであれば、
酒の銘柄や種類を問わず、量も問わず、行きつけのランクも問わず、
ただ酒を飲めば良いのです。
頑なに日本酒でないといけないと言うこともなければ、
こじゃれたバーやダイニングである必要性もありません。
もっともさらに限定化された狭義の酒飲み、ということであれば
さらに付帯した条件がついてくるのやもしれませんが、
個人的には教養というものにそこまで杓子定規な制約を定めてはおりません。
教養を学ぶ意義については千差万別で悪いことはなかろうと思いますが、
個人的には知的欲求の充足でもあり、思考の錬成でもあり、
社交やビジネス上のツールでもあり、
現在の環境における義務でもあり、
もちろん自己満足でもありますね。
私に限定して問われたものでは無いかと思いますので、
あくまで私見と枕した上で書きますが、
日本のアッパークラスの人間が傾向として読んでいるような哲学書はおそらくないでしょう。
戦前まではデカルト、カント、ショーペンハウエルの
いわゆる“デカンショ”が流行ったわけですが、
エリート学生の多くが読んでいた、ということでは無かったそうです。
西田哲学についても同様で、いわゆるポストモダンの潮流の中で持て囃されたブームの一つであった側面も否定できないでしょう。
もちろん、京大の哲学研究科に在籍していて
西田幾太郎をかじったことすらない人は居ないでしょうが…。
そういう意味では多様化する価値観の中での知的会話を可能にする共通の認識として、「教養」があるとするなら、
それは「巨人・大鵬・卵焼き」ではなく、
「野球あるいはベースボール・相撲・スイーツ」と集合されるべきものです。
あるいはもっと広いのかも。
酒飲みとして共通認識を持つのであれば、
酒の銘柄や種類を問わず、量も問わず、行きつけのランクも問わず、
ただ酒を飲めば良いのです。
頑なに日本酒でないといけないと言うこともなければ、
こじゃれたバーやダイニングである必要性もありません。
もっともさらに限定化された狭義の酒飲み、ということであれば
さらに付帯した条件がついてくるのやもしれませんが、
個人的には教養というものにそこまで杓子定規な制約を定めてはおりません。
教養を学ぶ意義については千差万別で悪いことはなかろうと思いますが、
個人的には知的欲求の充足でもあり、思考の錬成でもあり、
社交やビジネス上のツールでもあり、
現在の環境における義務でもあり、
もちろん自己満足でもありますね。
フランスは完全に格差社会だよ、職業間のね
>>61-62
丁寧なレス、ありがとうございます。
知的会話を可能にする共通の基盤を形成するのが教養の役割の一つなのだとしたら、
慶応の学生にとって福澤先生の著作ほどそれにふさわしいものはないと思いますが、残念な結果のようですw
仰るとおり、年長世代の先輩たちは偉そうにしてても、実際、難しい哲学書をきちんと読んで理解していた人となると意外に少数なのかもしれませんねw
しかし問題は、解説書や耳学問を通してだけでも、「読んだふり」をしたくなるか、知らないと恥ずかしいという気持ちになるかどうか、
というところにあるように思います。
つまり、「この文化・教養は正統なもの、価値の高いものであり、身につけるべきものである」という世間の認識・規範が存在しているかどうか、
がポイントではないでしょうか。
教養を学ぶ意義について考えるとき、自分が持っている問いはまさにこの点です。
一言で言って、教養の価値は、相対的なものか、それとも普遍的なものか。
「ひとそれぞれ多様でいいよね」か、「いやこの社会の構成員として生きる以上、普遍的に身につけるべき価値の高いものがある」と考えるのか否か。
仮に、そういった普遍的な規範が存在すると考えるのならば、
ある場合には、義務教育レベルから、高等教育、さらにはリカレント教育(成人教育)に至るまで、
国家もしくは社会が、押し付けてでも学ばせるべき、身につけさせるべき教養が存在するということになるはずです。
(斉藤孝さんなんかは、まさにこんな主張をしていますね。小学生に『夢十夜』や『マクベス』を読ませろ!みたいな。
アッパークラスの子弟だけでもいいですが。)
そして、その教養を人々が望み、必要性を感じるのなら、実際にそういう教育の需要が増えていてしかるべきだと思います。
しかし、現状、実学つまり「役に立つ」学問全盛の時代で、とてもそうなっているとは思えません。
大学も教養科目なんてやってる時間があるなら、ビジネスマナーの授業でもやって就職率を少しでもあげろ!みたいな時代ですよね。
その意味で、>>62のレスにある「現在の環境における義務」という言葉に(詳しくはわかりませんが)ひかれました。
丁寧なレス、ありがとうございます。
知的会話を可能にする共通の基盤を形成するのが教養の役割の一つなのだとしたら、
慶応の学生にとって福澤先生の著作ほどそれにふさわしいものはないと思いますが、残念な結果のようですw
仰るとおり、年長世代の先輩たちは偉そうにしてても、実際、難しい哲学書をきちんと読んで理解していた人となると意外に少数なのかもしれませんねw
しかし問題は、解説書や耳学問を通してだけでも、「読んだふり」をしたくなるか、知らないと恥ずかしいという気持ちになるかどうか、
というところにあるように思います。
つまり、「この文化・教養は正統なもの、価値の高いものであり、身につけるべきものである」という世間の認識・規範が存在しているかどうか、
がポイントではないでしょうか。
教養を学ぶ意義について考えるとき、自分が持っている問いはまさにこの点です。
一言で言って、教養の価値は、相対的なものか、それとも普遍的なものか。
「ひとそれぞれ多様でいいよね」か、「いやこの社会の構成員として生きる以上、普遍的に身につけるべき価値の高いものがある」と考えるのか否か。
仮に、そういった普遍的な規範が存在すると考えるのならば、
ある場合には、義務教育レベルから、高等教育、さらにはリカレント教育(成人教育)に至るまで、
国家もしくは社会が、押し付けてでも学ばせるべき、身につけさせるべき教養が存在するということになるはずです。
(斉藤孝さんなんかは、まさにこんな主張をしていますね。小学生に『夢十夜』や『マクベス』を読ませろ!みたいな。
アッパークラスの子弟だけでもいいですが。)
そして、その教養を人々が望み、必要性を感じるのなら、実際にそういう教育の需要が増えていてしかるべきだと思います。
しかし、現状、実学つまり「役に立つ」学問全盛の時代で、とてもそうなっているとは思えません。
大学も教養科目なんてやってる時間があるなら、ビジネスマナーの授業でもやって就職率を少しでもあげろ!みたいな時代ですよね。
その意味で、>>62のレスにある「現在の環境における義務」という言葉に(詳しくはわかりませんが)ひかれました。
学問が出来て知識豊富でも空気読めなかったり気を使えない奴はバカにされるだろ?
廻りに気を使えて学がある奴を「教養のある奴」っつうんだと思うぜ。
廻りに気を使えて学がある奴を「教養のある奴」っつうんだと思うぜ。
>>63
これも具体性の無い書き込み。
少しはzeroさんを見習いなさいや。
>>64
福沢の著作に関しては意見を異にせざるを得ませんが、
ここはさほど拘泥するところでもありませんので、とりあえず置いときます(笑)
教養の意義に関して、その有用性やあるいは学術の本質に関して
浅いアプローチのみで済ましている自称教養人が少なからずいることは同意しますし、
その軽薄さを苦々しく思う気持ちも僭越ながらあります。
余談ですが、新卒で入ってきた哲学科卒の学生が、
見事なまでに哲学史をなぞらえるだけで、さすがに説教に近い指摘をしたこともあるくらいです。
ただ、その上で、専門家や研究者でも無い限りは、
それも知的共有としては成立するわけで、
何ら不足しているわけでもないのです。
少なくとも「何のことか知らない」とは違って出発点になりうる。
仰るような学ばさせるべき教養がこれ!と定まっていれば世の中は大分楽ですが、
個人的には、その取捨選択でさえも教養なのだと思います。
昨今のサブカル系男子女子などは、ファッション的に澁澤や寺山を読んでいますが、
それに付随して何を読むか、何を好むかということを
他者への理解や評価と繋げている部分があります。
それはカウンターカルチャーの分野にすぎないと言えばそうですが、
教養、なおいても同じことが言えるのではないかと思います。
実学偏重、という流れは全く同感で、
私としても、文学部で宗教やら社会学やらやりましたので、
常に腹蔵もっている次第です(笑)
これも具体性の無い書き込み。
少しはzeroさんを見習いなさいや。
>>64
福沢の著作に関しては意見を異にせざるを得ませんが、
ここはさほど拘泥するところでもありませんので、とりあえず置いときます(笑)
教養の意義に関して、その有用性やあるいは学術の本質に関して
浅いアプローチのみで済ましている自称教養人が少なからずいることは同意しますし、
その軽薄さを苦々しく思う気持ちも僭越ながらあります。
余談ですが、新卒で入ってきた哲学科卒の学生が、
見事なまでに哲学史をなぞらえるだけで、さすがに説教に近い指摘をしたこともあるくらいです。
ただ、その上で、専門家や研究者でも無い限りは、
それも知的共有としては成立するわけで、
何ら不足しているわけでもないのです。
少なくとも「何のことか知らない」とは違って出発点になりうる。
仰るような学ばさせるべき教養がこれ!と定まっていれば世の中は大分楽ですが、
個人的には、その取捨選択でさえも教養なのだと思います。
昨今のサブカル系男子女子などは、ファッション的に澁澤や寺山を読んでいますが、
それに付随して何を読むか、何を好むかということを
他者への理解や評価と繋げている部分があります。
それはカウンターカルチャーの分野にすぎないと言えばそうですが、
教養、なおいても同じことが言えるのではないかと思います。
実学偏重、という流れは全く同感で、
私としても、文学部で宗教やら社会学やらやりましたので、
常に腹蔵もっている次第です(笑)
短い文章しか書けない事自体が
結局ブーメランぶっ刺さってる事実は曲げられないけどねw
結局ブーメランぶっ刺さってる事実は曲げられないけどねw
>>67
他のスレで拝見したのかもしれませんが、(失礼ですが)出版関係のお仕事をされていらっしゃるんでしたっけ?
もし、そうでしたら、他の業種よりも「教養」の香りが未だ残っている世界なのかもしれませんね。
といっても、出版の世界もいわゆる「教養書」は売れなくなって来ているんじゃないでしょうか?
雑誌で言えば、『ユリイカ』や『現代思想』なんて売れてんですかね?それから岩波でいえば『世界』・・・
これらも随分、昔に比べてジャーナリスティック(商業的?)になりましたね。
ところで。社会学者の宮台真司さんが、以前「コミュニケーションの島宇宙化」という指摘をしていました。
>>62で仰られていたように、「巨人・大鵬・卵焼き」の時代は終わり、時代は多様化してきました。
好きなもの、学びたいもの、読みたい本、は人それぞれで、そのそれぞれが小集団を形成し、
各々の小さな島宇宙の間にはつながりがなくなって、互いのコミュニケーションが不可能になってしまった。
澁澤や寺山を好きな人もいれば、やたら韓国の歴史の本ばかり読んでいてそれに精通している人もいるw
それと並行して、知の領域がフラット化し、教養の世界の「規範性・正統性・普遍性」も失われたように思います。
マンガやアイドルが、哲学と等価値でもって同じ土俵で語られたりすることになる。
「ハイカルチャー=正統文化」と「サブカルチャー」の腑分けが無くなるという事態ですね。
(人文社会科学の世界では、まさに宮台さんの『サブカルチャー神話解体』から始まる一連の仕事やら、
その系につらなる東浩紀さんのオタク論などが、このフラット化を促進したように思います。)
他のスレで拝見したのかもしれませんが、(失礼ですが)出版関係のお仕事をされていらっしゃるんでしたっけ?
もし、そうでしたら、他の業種よりも「教養」の香りが未だ残っている世界なのかもしれませんね。
といっても、出版の世界もいわゆる「教養書」は売れなくなって来ているんじゃないでしょうか?
雑誌で言えば、『ユリイカ』や『現代思想』なんて売れてんですかね?それから岩波でいえば『世界』・・・
これらも随分、昔に比べてジャーナリスティック(商業的?)になりましたね。
ところで。社会学者の宮台真司さんが、以前「コミュニケーションの島宇宙化」という指摘をしていました。
>>62で仰られていたように、「巨人・大鵬・卵焼き」の時代は終わり、時代は多様化してきました。
好きなもの、学びたいもの、読みたい本、は人それぞれで、そのそれぞれが小集団を形成し、
各々の小さな島宇宙の間にはつながりがなくなって、互いのコミュニケーションが不可能になってしまった。
澁澤や寺山を好きな人もいれば、やたら韓国の歴史の本ばかり読んでいてそれに精通している人もいるw
それと並行して、知の領域がフラット化し、教養の世界の「規範性・正統性・普遍性」も失われたように思います。
マンガやアイドルが、哲学と等価値でもって同じ土俵で語られたりすることになる。
「ハイカルチャー=正統文化」と「サブカルチャー」の腑分けが無くなるという事態ですね。
(人文社会科学の世界では、まさに宮台さんの『サブカルチャー神話解体』から始まる一連の仕事やら、
その系につらなる東浩紀さんのオタク論などが、このフラット化を促進したように思います。)
ところで、質問ばかりしてしまったので、自分の考えも少しばかり開陳させていただきます。
まず、教養とは何か、という定義の問題ですが、もともとの意味にあるように「自己(人格)の成長」や「社会の創造」と結びついた概念であるべきだと思ってます。
まず、「自己の成長」についてですが、
上の方でも他の方が、教養には、知識や情報はもちろん、「対人関係能力」も含まれると指摘されています。
現在の教育や就活の場面で、コミュ力や人間力が重視されるように、これは「社会に上手く『適応』するための能力・教養」という考え方です。
しかし、自分が考える「自己(人格)の成長」とは、それとは少し違い、「脱俗的」な側面を含んでいます。
それは「人格者」という言葉が、「金儲けが上手い人」、「世渡りが上手い人」など「世俗の価値にそった人」を指していないのと同様です。
すなわち、教養は、現在の社会を『相対化』しうるような「自己の成長」をも目的とする。
自分の生き方の原理原則を確立し、時に間違っていると思えば、「あえて空気を読まない」という形で周囲の風潮に「水をさす」。
そのような自己を形成するためにこそ教養は存在すると考えます。
そして次に、「社会の創造」についてですが、
「お金につながらなければ(知識としての)教養など意味がない」とか、
「仕事や社交に役立たなければ(知識としての)教養など道具として意味がない」といった価値観がもし社会に蔓延しているのだとしたら、
そういった社会の価値観を見直し、自分の生き方を見直すことをこそ目指すのが教養だと思います。
(・・・もちろん、お金や仕事といった実益をないがしろにするのではなく、それも大事にしながら、という話ですね。食っていけなきゃ仕方ないですしw)
ゆえに、この社会の構成員である以上、この社会で自分がどう生きるべきか(成長すべきか)、この社会がどういう社会であるべきか、
を考えるための教養は、押し付けてでも身につけさせる必要があると思っています(少なくとも社会を動かす層にいる人間には)。
自分は、こういった価値観や規範から選択した普遍的な(趣味とは違ってみんなが身につけるべき)正統の文化が存在すると考えます。
例えば、先にあげたプラトンなどは民主主義社会を生きるわれわれにとって、『正統な』教養だと思います。
まず、教養とは何か、という定義の問題ですが、もともとの意味にあるように「自己(人格)の成長」や「社会の創造」と結びついた概念であるべきだと思ってます。
まず、「自己の成長」についてですが、
上の方でも他の方が、教養には、知識や情報はもちろん、「対人関係能力」も含まれると指摘されています。
現在の教育や就活の場面で、コミュ力や人間力が重視されるように、これは「社会に上手く『適応』するための能力・教養」という考え方です。
しかし、自分が考える「自己(人格)の成長」とは、それとは少し違い、「脱俗的」な側面を含んでいます。
それは「人格者」という言葉が、「金儲けが上手い人」、「世渡りが上手い人」など「世俗の価値にそった人」を指していないのと同様です。
すなわち、教養は、現在の社会を『相対化』しうるような「自己の成長」をも目的とする。
自分の生き方の原理原則を確立し、時に間違っていると思えば、「あえて空気を読まない」という形で周囲の風潮に「水をさす」。
そのような自己を形成するためにこそ教養は存在すると考えます。
そして次に、「社会の創造」についてですが、
「お金につながらなければ(知識としての)教養など意味がない」とか、
「仕事や社交に役立たなければ(知識としての)教養など道具として意味がない」といった価値観がもし社会に蔓延しているのだとしたら、
そういった社会の価値観を見直し、自分の生き方を見直すことをこそ目指すのが教養だと思います。
(・・・もちろん、お金や仕事といった実益をないがしろにするのではなく、それも大事にしながら、という話ですね。食っていけなきゃ仕方ないですしw)
ゆえに、この社会の構成員である以上、この社会で自分がどう生きるべきか(成長すべきか)、この社会がどういう社会であるべきか、
を考えるための教養は、押し付けてでも身につけさせる必要があると思っています(少なくとも社会を動かす層にいる人間には)。
自分は、こういった価値観や規範から選択した普遍的な(趣味とは違ってみんなが身につけるべき)正統の文化が存在すると考えます。
例えば、先にあげたプラトンなどは民主主義社会を生きるわれわれにとって、『正統な』教養だと思います。
>>68
?
短い文章しか書けないことが、具体性の無いことと同じだと言ってる?
それとも具体性の無い彼を批判してる?
指事語や修飾語が少なすぎて意味がわからない。翻訳よろしく!
>>69
仕事は編集なので、出版です。
教養の香りなどとはおこがましいですが、
テレビや新聞などと比較して、非実学的な知識でも受け入れられる土壌はあるかと思います。
出版の動向に関しては、教養書は勿論右肩下がりですが、
ネットにシェアを食われた情報誌や、
活字ばなれの一番の被害者である小説に比べたらましかもしれません。
岩波には固定ファンがいますし。
ただし、ユリイカは今や方向転換して、
サブカル好きの若者のための書籍に方向転換しました。
メインの特集は全てサブカルマンガです。
宮台や東が「知をフラット化した」というのは実にその通りだと思いますね。
現実に私なども思春期に宮台にはまった口です(笑)
同じく宮台が、オタク論の中で、オタクとは特定の志向性でなく、
それをもつ空間のことだと言ってましたが、
これはもっと広い範囲でも使える分析でしょう。
半端で申し訳ないのですが、
これからお台場で取材のため、
後半は後程返信します。
?
短い文章しか書けないことが、具体性の無いことと同じだと言ってる?
それとも具体性の無い彼を批判してる?
指事語や修飾語が少なすぎて意味がわからない。翻訳よろしく!
>>69
仕事は編集なので、出版です。
教養の香りなどとはおこがましいですが、
テレビや新聞などと比較して、非実学的な知識でも受け入れられる土壌はあるかと思います。
出版の動向に関しては、教養書は勿論右肩下がりですが、
ネットにシェアを食われた情報誌や、
活字ばなれの一番の被害者である小説に比べたらましかもしれません。
岩波には固定ファンがいますし。
ただし、ユリイカは今や方向転換して、
サブカル好きの若者のための書籍に方向転換しました。
メインの特集は全てサブカルマンガです。
宮台や東が「知をフラット化した」というのは実にその通りだと思いますね。
現実に私なども思春期に宮台にはまった口です(笑)
同じく宮台が、オタク論の中で、オタクとは特定の志向性でなく、
それをもつ空間のことだと言ってましたが、
これはもっと広い範囲でも使える分析でしょう。
半端で申し訳ないのですが、
これからお台場で取材のため、
後半は後程返信します。
「教養」ないアスペ先輩乙w
>>72
これもやはり具体性に欠けた発言。
反論や批判は具体的でないと自分が馬鹿だと言ってるようなものだ。
再三指摘してもただの罵倒を続けるなら
アク禁依頼を出すので、はっきりしとくれ。
>>70
返信が遅くなったことをまずお詫びします。すみません。
教養を学ぶ本質的な意義、あるいは究極的な理想としては完全に同意です。
ただし、二つの点で異論があります。
とは言えこれに絶対的価値を置くのではなく、
現在の自分のスタンスに依居しているために必然的に起こる暫定的な考え方であるのは強調しておきます。
まずひとつは、複雑化した現代社会において、
ひとつの志向性を巡る過程で起こる副作用を軽視できないこと。
例えば宗教などは存在論に解答を与えるものであるべきだし、
スピリチュアルに言えば魂の救済など物質を超越しない限り
その成立を許されないはずですが、
今日の宗教組織は慈善事業などでむしろ功績をあげているわけで、
例えば依存症患者の治療などは
通院するよりも効果が高いと
医学的に証明されているくらいです。
その効果を世にへつらった軽薄なものとするのではなく、
副作用として一定の評価をしても良いのではないかということです。
遠回しな言い方をしていますが、教養においても同様に当てはめられ、
本質を見失うことを良しとまではしないまでも、
その副次的効果を評価すべきではないでしょうか?
現実問題、皆がディオゲネスのような生活ができるわけではなく、
誰しもが芥川的な生きざまを遂行できるはずもありませんから。
もう一つはやや観念上の問題で、時代性を越えた全てに普遍的な教養など、私は無いと考えます。
私は客観的にみてウパニシャッド的享楽者ですので、
そこのところを汲んでいただければと思います。
これもやはり具体性に欠けた発言。
反論や批判は具体的でないと自分が馬鹿だと言ってるようなものだ。
再三指摘してもただの罵倒を続けるなら
アク禁依頼を出すので、はっきりしとくれ。
>>70
返信が遅くなったことをまずお詫びします。すみません。
教養を学ぶ本質的な意義、あるいは究極的な理想としては完全に同意です。
ただし、二つの点で異論があります。
とは言えこれに絶対的価値を置くのではなく、
現在の自分のスタンスに依居しているために必然的に起こる暫定的な考え方であるのは強調しておきます。
まずひとつは、複雑化した現代社会において、
ひとつの志向性を巡る過程で起こる副作用を軽視できないこと。
例えば宗教などは存在論に解答を与えるものであるべきだし、
スピリチュアルに言えば魂の救済など物質を超越しない限り
その成立を許されないはずですが、
今日の宗教組織は慈善事業などでむしろ功績をあげているわけで、
例えば依存症患者の治療などは
通院するよりも効果が高いと
医学的に証明されているくらいです。
その効果を世にへつらった軽薄なものとするのではなく、
副作用として一定の評価をしても良いのではないかということです。
遠回しな言い方をしていますが、教養においても同様に当てはめられ、
本質を見失うことを良しとまではしないまでも、
その副次的効果を評価すべきではないでしょうか?
現実問題、皆がディオゲネスのような生活ができるわけではなく、
誰しもが芥川的な生きざまを遂行できるはずもありませんから。
もう一つはやや観念上の問題で、時代性を越えた全てに普遍的な教養など、私は無いと考えます。
私は客観的にみてウパニシャッド的享楽者ですので、
そこのところを汲んでいただければと思います。
まとめられないで長文書くほうが気持ち悪いわ
5行でまとめろ
5行でまとめろ
哲学の本云々以前のレベル
情報の取得の仕方がまるで分かってない
こういう奴は何をどう読んでも時間の無駄
一番始めに明確に書いてるんだが
昨日今日でどうこうなるものじゃないので、反論がとうとか
そういう問題じゃないことにそろそろ気がついてくれないかな
情報の取得の仕方がまるで分かってない
こういう奴は何をどう読んでも時間の無駄
一番始めに明確に書いてるんだが
昨日今日でどうこうなるものじゃないので、反論がとうとか
そういう問題じゃないことにそろそろ気がついてくれないかな
まあ、ついでに言うと
言われてることが理解できない
理解する能力が欠如している
削除だアクセス禁止だって騒ぐ事自体が「無教養」を計らずしも、さらけ出しているわけだが
この点だけ取り上げても、全くもって「教養」という観点についての理解力が無いのは明らか
そんな人間が「教養」を語っても無意味だって言ってるわけ
これだけ言ったら、普通はどんな人間でも気が付きそうなもんだが
言われてることが理解できない
理解する能力が欠如している
削除だアクセス禁止だって騒ぐ事自体が「無教養」を計らずしも、さらけ出しているわけだが
この点だけ取り上げても、全くもって「教養」という観点についての理解力が無いのは明らか
そんな人間が「教養」を語っても無意味だって言ってるわけ
これだけ言ったら、普通はどんな人間でも気が付きそうなもんだが
>>71>>73
レスありがとうございます。SAROさんのご指摘により、自分の考えが触発・整理されていくようで楽しいです。
宮台さんは、自分の議論の仕方をマネする人たちを揶揄して『プチ宮台』などと呼んでいましたが、自分もまさにソレでしたw
異論としていただいた一点目。まず自分がきちんと理解できたか心許ないですが、
キリスト教風にいえば『伝道』の問題ということになるでしょうか?
自分の問いは、もし教養に「本質的効果」と「副次的効果」があるとすると、この二つはどういう関係にあるのか?ということです。
それを宗教の問題で言えば、「真理(本質・神性・霊性・超越・存在)の問題」と「伝道(世俗・社会・慈善事業?)の問題」の関係ということになるでしょうか。
自分の考えは、「人は宗教的真理・本質を確信したと感じたからこそ、
それを他者へと伝道し救済しようとする(そしてそれが神から与えられた使命であると感じる)のだし、
そうやって、他者と関わる過程でこそ宗教的真理の確信がさらに深まるのではないか?」
つまり、この二つは互いが互いの基底となり支えあっているのではないか、というものです。
「人は正しいと信じるからそれを他人に伝え救おうとするのだし、その働きかけによって他人が救われるのを見て自分の正しさをさらに確信する」
教養も同様で、自分の信じる正しさが本物かどうか、まさに他者(社会)との関係の中でこそ試される。
それは世俗の価値にそっているという意味で「自分の役に立つ」という意味だけではなく、
世俗の価値を相対化し、間違っているものを間違っていると指摘するというやり方で、「他人や社会(世俗)の役に立つ」ということ。
ここはバランスが肝心ですね。あまり脱俗的になっても、それこそ変人扱いされるだけで世俗から爪弾きにされてしまう。
ソクラテスが若者を堕落に導いたとされて死刑にされたように。
しかしながら、慈善事業や依存症のセルフヘルプグループ、ホスピスなどヒューマンケアの分野で、宗教的なものが人を癒す効力を発揮しているのは、
そこに世俗の価値(出世、競争、金儲け、モテと非モテw・・・)とは異なる「(霊的な?)ものさし」で人を見る側面があるからこそじゃないでしょうか?
レスありがとうございます。SAROさんのご指摘により、自分の考えが触発・整理されていくようで楽しいです。
宮台さんは、自分の議論の仕方をマネする人たちを揶揄して『プチ宮台』などと呼んでいましたが、自分もまさにソレでしたw
異論としていただいた一点目。まず自分がきちんと理解できたか心許ないですが、
キリスト教風にいえば『伝道』の問題ということになるでしょうか?
自分の問いは、もし教養に「本質的効果」と「副次的効果」があるとすると、この二つはどういう関係にあるのか?ということです。
それを宗教の問題で言えば、「真理(本質・神性・霊性・超越・存在)の問題」と「伝道(世俗・社会・慈善事業?)の問題」の関係ということになるでしょうか。
自分の考えは、「人は宗教的真理・本質を確信したと感じたからこそ、
それを他者へと伝道し救済しようとする(そしてそれが神から与えられた使命であると感じる)のだし、
そうやって、他者と関わる過程でこそ宗教的真理の確信がさらに深まるのではないか?」
つまり、この二つは互いが互いの基底となり支えあっているのではないか、というものです。
「人は正しいと信じるからそれを他人に伝え救おうとするのだし、その働きかけによって他人が救われるのを見て自分の正しさをさらに確信する」
教養も同様で、自分の信じる正しさが本物かどうか、まさに他者(社会)との関係の中でこそ試される。
それは世俗の価値にそっているという意味で「自分の役に立つ」という意味だけではなく、
世俗の価値を相対化し、間違っているものを間違っていると指摘するというやり方で、「他人や社会(世俗)の役に立つ」ということ。
ここはバランスが肝心ですね。あまり脱俗的になっても、それこそ変人扱いされるだけで世俗から爪弾きにされてしまう。
ソクラテスが若者を堕落に導いたとされて死刑にされたように。
しかしながら、慈善事業や依存症のセルフヘルプグループ、ホスピスなどヒューマンケアの分野で、宗教的なものが人を癒す効力を発揮しているのは、
そこに世俗の価値(出世、競争、金儲け、モテと非モテw・・・)とは異なる「(霊的な?)ものさし」で人を見る側面があるからこそじゃないでしょうか?
いい喩えかわかりませんが、原発反対論者が居場所がある社会、それがイイ社会だと思います。(自分は必ずしも原発に反対ではないですが)
「原発によるエネルギーの増加=経済成長=幸福」みたいな価値観の等式を疑うことは、原発事故の前には許されなかったですね。
そういう研究者には居場所がありませんでした。世俗の価値におもねって論文(報告書)を書いた御用学者にだけ居場所が用意されました。
「自分の好きな研究さえできればいい」という考え方で「原子力村という島宇宙」で生きていると、見えないものがあるはずです。
原発に反対するためには、島宇宙から脱出し広く社会全体を俯瞰して相対化する視野を持つような『教養』が必要なはずです。
これは研究者だけでなく、一般の会社員が自社の労働環境に異議申し立てをしたり、(例えば食品偽装などで)内部告発するようなケースでも同じだと思います。
自ら所属する狭い「村=島宇宙」から脱して、より広い文脈の「正しさ=正統性」から自分の立っている場所を見直すこと。
現代人は「自分の考える正統性を他人に強く主張し介入することをおそれている」と思います。
「自分は自分、他人は他人、互いに介入せず尊重しあいましょう」・・・この一見理想的な多文化主義?が、
価値相対主義につながり、他者や社会への無関心(「みんな勝手にすればいい」「社会は自分と関係なくまわっている」)を生み出しているように思います。
続けて異論の二点目。仰るとおり時代貫通的な普遍性など存在しないと思います。
しかし、少なくとも今われわれが生きているこの時代・社会の中での普遍的な(誰にとっても価値のある)正しさを求めて、
互いが議論しあうようなことがもっとあっていい、そう思います。
こういう物言いは、スレ画の西部氏や、アメリカで教養の没落に抵抗した政治哲学者のアランブルームなど、
いわゆる「保守派」の考え方にも近いと思います。(自分はこれらの方々とは少し立場を異にしますが・・・)
よって、問題はナショナリズムやエスノセントリズム(自民族中心主義)に関する事柄に否応なく関わってくると思います。
「日本人なら新渡戸の『武士道』ぐらい教養として読んでおくべきだ!」みたいな・・・
「原発によるエネルギーの増加=経済成長=幸福」みたいな価値観の等式を疑うことは、原発事故の前には許されなかったですね。
そういう研究者には居場所がありませんでした。世俗の価値におもねって論文(報告書)を書いた御用学者にだけ居場所が用意されました。
「自分の好きな研究さえできればいい」という考え方で「原子力村という島宇宙」で生きていると、見えないものがあるはずです。
原発に反対するためには、島宇宙から脱出し広く社会全体を俯瞰して相対化する視野を持つような『教養』が必要なはずです。
これは研究者だけでなく、一般の会社員が自社の労働環境に異議申し立てをしたり、(例えば食品偽装などで)内部告発するようなケースでも同じだと思います。
自ら所属する狭い「村=島宇宙」から脱して、より広い文脈の「正しさ=正統性」から自分の立っている場所を見直すこと。
現代人は「自分の考える正統性を他人に強く主張し介入することをおそれている」と思います。
「自分は自分、他人は他人、互いに介入せず尊重しあいましょう」・・・この一見理想的な多文化主義?が、
価値相対主義につながり、他者や社会への無関心(「みんな勝手にすればいい」「社会は自分と関係なくまわっている」)を生み出しているように思います。
続けて異論の二点目。仰るとおり時代貫通的な普遍性など存在しないと思います。
しかし、少なくとも今われわれが生きているこの時代・社会の中での普遍的な(誰にとっても価値のある)正しさを求めて、
互いが議論しあうようなことがもっとあっていい、そう思います。
こういう物言いは、スレ画の西部氏や、アメリカで教養の没落に抵抗した政治哲学者のアランブルームなど、
いわゆる「保守派」の考え方にも近いと思います。(自分はこれらの方々とは少し立場を異にしますが・・・)
よって、問題はナショナリズムやエスノセントリズム(自民族中心主義)に関する事柄に否応なく関わってくると思います。
「日本人なら新渡戸の『武士道』ぐらい教養として読んでおくべきだ!」みたいな・・・
>>80
返信遅れてすみません。
宗教の例えですが、宗教の本質は前述のように存在論であって、
救済(特に他者へのそれ)ではありません。
仏教でもその根元は自己による解脱が究極の目的なわけで、
阿弥陀如来のような他者救済の概念は初期仏教にはなかったくらいですから。
つまり、宗教としては慈善事業など副次的な行為は必要としないのです。
飽くまで宗教組織として現代生きる為の役割期待というだけで。
ですので、それらが複合して…という前提は本質的な宗教意味からいうと違います。
けれど、社会学的に違うかと言われたら、違いません。
そのあたりの方便が教養の用いられ方にも流用できるのだと思います。
バランス、を重視するとなると、それこそ本質的でない教養の理解が求められます。
芥川も言っているように、本質を理解しつつ、それを斜めにみて実践することの“無い”態度が
世に憚る技術であるのでしょう。
これが本来の価値としてどうかはさておき、
否定できない価値の一側面であることは疑い無いと思います。
返信遅れてすみません。
宗教の例えですが、宗教の本質は前述のように存在論であって、
救済(特に他者へのそれ)ではありません。
仏教でもその根元は自己による解脱が究極の目的なわけで、
阿弥陀如来のような他者救済の概念は初期仏教にはなかったくらいですから。
つまり、宗教としては慈善事業など副次的な行為は必要としないのです。
飽くまで宗教組織として現代生きる為の役割期待というだけで。
ですので、それらが複合して…という前提は本質的な宗教意味からいうと違います。
けれど、社会学的に違うかと言われたら、違いません。
そのあたりの方便が教養の用いられ方にも流用できるのだと思います。
バランス、を重視するとなると、それこそ本質的でない教養の理解が求められます。
芥川も言っているように、本質を理解しつつ、それを斜めにみて実践することの“無い”態度が
世に憚る技術であるのでしょう。
これが本来の価値としてどうかはさておき、
否定できない価値の一側面であることは疑い無いと思います。
普遍的な価値について、絶対的なものが少なくとも現時点において無いと言うのは
見解の一致を見たと思います。
加えておっしゃる通り、それを模索していく態度が肝だと言うのも同感です。
ただ、だからこそ現時点で「これを読むべき」というものは
あるはずがないし、安易にあってはならないのだと思います。
実利としても、インド哲学専攻者と数理哲学専攻とでは会話が成り立ちますが、
哲学書を一冊も読んだことの無い人とでは話が通じ得ないでしょう。
そういう意味では最低限の共通要項はありますが、
それは本当に最低限の、日常的な読書習慣、
教科書に載ってる程度の知識などは必要です。
こういう言い方は語弊がありますが、
現実問題として教育水準の高い個人であれば
この辺りはクリアされてることが当然多く、
そういうのが教養と俗に言われることも私は理解できます。
見解の一致を見たと思います。
加えておっしゃる通り、それを模索していく態度が肝だと言うのも同感です。
ただ、だからこそ現時点で「これを読むべき」というものは
あるはずがないし、安易にあってはならないのだと思います。
実利としても、インド哲学専攻者と数理哲学専攻とでは会話が成り立ちますが、
哲学書を一冊も読んだことの無い人とでは話が通じ得ないでしょう。
そういう意味では最低限の共通要項はありますが、
それは本当に最低限の、日常的な読書習慣、
教科書に載ってる程度の知識などは必要です。
こういう言い方は語弊がありますが、
現実問題として教育水準の高い個人であれば
この辺りはクリアされてることが当然多く、
そういうのが教養と俗に言われることも私は理解できます。
>>83
なるほどです。宗教とは、そういうものですか。まさに一つ教養が高まりましたwありがとうございます。
・・・そういえば、教養は「増える」というより「高まる」ものですね。教養が「多い」人というより「高い」人といいますね。
あらためまして教養の話ですが、自分の>>80の指摘は、わかりやすく言ってしまえば、
「本を読んで成長し、成長した自分と知識が本物かどうか他人や社会のなかでこそ試されるということ。
それは(身につけた知識の正しさを吟味したり、社交の資源としたりといった)自分のため“だけ”ではなく、
他人や社会の役に立つようなかかわりの中でも行われるということ(慈善活動も含めまして)。
そして、そういったかかわりの中でこそ本の大切さを再確認し、さらに学び自分を成長させようとすること。」
というような、互いが互いの基礎となりかつ動因となるような循環構造(ループ)について述べたものです。
「バランス」に関してですが、
世俗の価値に適応することと相対化することの両面を教養は含んでいると思っています。
そして、この両方を大なり小なり全ての人がやっていると思っています。
近年、適応主義が強く相対化の側面が忘れられる傾向が強いため(本スレの他の方の教養の定義もそういう傾向が強いと思います)、
>>70では、特に後者を強調して取り上げたことは確かです。
本来、過剰に適応してばかりでも、相対化してばかりでも、バランスをとらなければ生きるのがつらくなると思います。
具体的な>>81の例でいいますと、原発反対論者や(ブラック企業に対する)内部告発者もそうですが、
普通に適応して働きながらも、例えば自社の男女の労働環境に対する差別などに対しては異議申し立てする人。
そのような、自分の村=島宇宙の価値観に疑問を提示する人間がもっといていいし、
我々は、もう少しそういう見方をしてもいいし、そういう人がもっと居場所のある社会になっていいのではないか。
“バランスの問題として”そう思います。そして、その判断・行動のベースとなるものこそが「教養」だと思います。
特に日本は島宇宙の「空気を読む」適応同調圧力が強く、そこに異議を唱えることを過度におそれる(苦手な)傾向があるように思います。(いじめなども)
なるほどです。宗教とは、そういうものですか。まさに一つ教養が高まりましたwありがとうございます。
・・・そういえば、教養は「増える」というより「高まる」ものですね。教養が「多い」人というより「高い」人といいますね。
あらためまして教養の話ですが、自分の>>80の指摘は、わかりやすく言ってしまえば、
「本を読んで成長し、成長した自分と知識が本物かどうか他人や社会のなかでこそ試されるということ。
それは(身につけた知識の正しさを吟味したり、社交の資源としたりといった)自分のため“だけ”ではなく、
他人や社会の役に立つようなかかわりの中でも行われるということ(慈善活動も含めまして)。
そして、そういったかかわりの中でこそ本の大切さを再確認し、さらに学び自分を成長させようとすること。」
というような、互いが互いの基礎となりかつ動因となるような循環構造(ループ)について述べたものです。
「バランス」に関してですが、
世俗の価値に適応することと相対化することの両面を教養は含んでいると思っています。
そして、この両方を大なり小なり全ての人がやっていると思っています。
近年、適応主義が強く相対化の側面が忘れられる傾向が強いため(本スレの他の方の教養の定義もそういう傾向が強いと思います)、
>>70では、特に後者を強調して取り上げたことは確かです。
本来、過剰に適応してばかりでも、相対化してばかりでも、バランスをとらなければ生きるのがつらくなると思います。
具体的な>>81の例でいいますと、原発反対論者や(ブラック企業に対する)内部告発者もそうですが、
普通に適応して働きながらも、例えば自社の男女の労働環境に対する差別などに対しては異議申し立てする人。
そのような、自分の村=島宇宙の価値観に疑問を提示する人間がもっといていいし、
我々は、もう少しそういう見方をしてもいいし、そういう人がもっと居場所のある社会になっていいのではないか。
“バランスの問題として”そう思います。そして、その判断・行動のベースとなるものこそが「教養」だと思います。
特に日本は島宇宙の「空気を読む」適応同調圧力が強く、そこに異議を唱えることを過度におそれる(苦手な)傾向があるように思います。(いじめなども)
>>84
普遍性については、仰っていただいた通り大きな差異はないようですね。
もし違いがあるとすれば、自分はSAROさんより価値相対主義に対する疑問(苛立ち?w)が強いかもしれないな・・・と思いました。
日本では、80年代の浅田彰あたりから始まるいわゆるニューアカブームでポストモダン、ポスト構造主義などの思想が輸入され、
すべての価値が宙吊りにされましたね。そういった「価値崩し・ハシゴはずし」の作業は30年近く延々と現在まで続いていると思います。
いわく「普遍的な価値、正しさ、善・・・」そういったものは全て(人が勝手に構築した)フィクションである云々。
ゆえに、「それぞれの島宇宙の中でそれぞれの人たちが勝手につくり上げた特殊で限定的な「普遍性」を叫んでいるにすぎないのであって、
各島宇宙間を貫通するような本物の<普遍性>などは存在しないのだから、自分の「普遍性」を相手に押し付けてはならない」
という多文化主義的な主張が今最も説得力のあるもの、ということになっていると思います。
しかし、それは一方で、自分の拠って立つ地盤の瓦解、アイデンティティの不安をもたらし、
「ハシゴはずし」の宙吊り状態に耐えられなくなった人たちを大量に生み出したように思います。
すなわち、「フィクションなんてわかってるよ。でも、人間がフィクションなしに生きていけると考えたら大間違いだ。
たとえば、「国家」の概念がフィクションだったとして、ソレなしに今生きていけるか?
だから、俺たちの島宇宙では俺たちが勝手に自分たちの好きな「普遍性・正当性」の物語をつくりあげて生きていって何が悪い?」
挙句、「日本人は日本人のためのフィクションのなかで生きればいいのであって、『日本神話を義務教育のなかで教えるべきだ』」
というような話も出てくるようになる。
こういった「島宇宙内ひきこもり」と「島宇宙間のコミュニケーションの断絶」に自分は疑問を感じます。
そういった意味で、各島宇宙間に共通する<普遍性>を探すことに、今より積極的であるべきではないかと思っています。
まずは普遍性云々以前に、物量の面だけでも、教科書をより充実させたり、大学でも一般教養をもっと重視すべきだと考えていますが。
普遍性については、仰っていただいた通り大きな差異はないようですね。
もし違いがあるとすれば、自分はSAROさんより価値相対主義に対する疑問(苛立ち?w)が強いかもしれないな・・・と思いました。
日本では、80年代の浅田彰あたりから始まるいわゆるニューアカブームでポストモダン、ポスト構造主義などの思想が輸入され、
すべての価値が宙吊りにされましたね。そういった「価値崩し・ハシゴはずし」の作業は30年近く延々と現在まで続いていると思います。
いわく「普遍的な価値、正しさ、善・・・」そういったものは全て(人が勝手に構築した)フィクションである云々。
ゆえに、「それぞれの島宇宙の中でそれぞれの人たちが勝手につくり上げた特殊で限定的な「普遍性」を叫んでいるにすぎないのであって、
各島宇宙間を貫通するような本物の<普遍性>などは存在しないのだから、自分の「普遍性」を相手に押し付けてはならない」
という多文化主義的な主張が今最も説得力のあるもの、ということになっていると思います。
しかし、それは一方で、自分の拠って立つ地盤の瓦解、アイデンティティの不安をもたらし、
「ハシゴはずし」の宙吊り状態に耐えられなくなった人たちを大量に生み出したように思います。
すなわち、「フィクションなんてわかってるよ。でも、人間がフィクションなしに生きていけると考えたら大間違いだ。
たとえば、「国家」の概念がフィクションだったとして、ソレなしに今生きていけるか?
だから、俺たちの島宇宙では俺たちが勝手に自分たちの好きな「普遍性・正当性」の物語をつくりあげて生きていって何が悪い?」
挙句、「日本人は日本人のためのフィクションのなかで生きればいいのであって、『日本神話を義務教育のなかで教えるべきだ』」
というような話も出てくるようになる。
こういった「島宇宙内ひきこもり」と「島宇宙間のコミュニケーションの断絶」に自分は疑問を感じます。
そういった意味で、各島宇宙間に共通する<普遍性>を探すことに、今より積極的であるべきではないかと思っています。
まずは普遍性云々以前に、物量の面だけでも、教科書をより充実させたり、大学でも一般教養をもっと重視すべきだと考えていますが。
教養を語るお前の文章に、教養がないって言ってんの
お前の文章全てが、それを証明してるよ上から読んだだけですぐ分かる
分からないで「具体性が無い」の繰り返ししか出来ないレスがすべて物語ってる
おまけに、アク禁だの削除依頼だの下劣極まりないわw
お前の文体、文章は教養という本は読みましたしかない
結局の所「教養」と言うのは、やれ、この本を読んだ、あの本を読んだ、などでは絶対に身に付かない
内面の変化があってこそ「教養」が身につくのであって、そう言った人物の書いた文章には
必ず、そう言ったものが文章から滲み出してくるのである、たとえ数行であってもね
毎朝朝礼でも、そういう話をするだろう
お前の文章にはそういうのが一切ないんだよw
お前の文章全てが、それを証明してるよ上から読んだだけですぐ分かる
分からないで「具体性が無い」の繰り返ししか出来ないレスがすべて物語ってる
おまけに、アク禁だの削除依頼だの下劣極まりないわw
お前の文体、文章は教養という本は読みましたしかない
結局の所「教養」と言うのは、やれ、この本を読んだ、あの本を読んだ、などでは絶対に身に付かない
内面の変化があってこそ「教養」が身につくのであって、そう言った人物の書いた文章には
必ず、そう言ったものが文章から滲み出してくるのである、たとえ数行であってもね
毎朝朝礼でも、そういう話をするだろう
お前の文章にはそういうのが一切ないんだよw
>>87
長くなった割りに、全部具体性がないじゃん(笑)
本当にわかってないんだなあ。
・教養がない
・文章のすべてですぐわかる
中学時代やった国語の授業思い出してごらん?
「なぜこの人が教養がないと言えるのか?」
という問題に対して、「文章ですぐわかる」なんて書いたら、
当然×がつくわけだよ。
「具体性がない」と繰り返してるのは、
君がこういう頓珍漢な解答を繰り返してるからに過ぎない。
むしろ、君はなんどやっても同じ指摘をされるね?
ということになるんだ。
アク禁や削除依頼はまともに掲示板上の議論をするときには当たり前のこと。
これを批判するということは、スレッド進行を阻害する意思があるということ?
だったら早々に依頼するけど。
とは言え、君が国語苦手な割に、頑張って具体性を持たそうとした姿勢は評価するので、
今回の書き込みを理由に依頼するのはやめておこう。
俺への反論とは繋がらないけど、一つ建設的な意見もある。
「教養は表面的な知識でなく、内面の変化をもって初めて身につけたと言える」
と言うことを言ってるよね?
ちょっと意訳してるけど、大意は変わらないと思う。
これは具体的にどういうこと?
実例を挙げるとか、それは何故良いのか、
表面的な知識が何故ダメなのか、
その辺をもう少し掘り下げると、より知的な議論ができるよ。
がんがれ!
長くなった割りに、全部具体性がないじゃん(笑)
本当にわかってないんだなあ。
・教養がない
・文章のすべてですぐわかる
中学時代やった国語の授業思い出してごらん?
「なぜこの人が教養がないと言えるのか?」
という問題に対して、「文章ですぐわかる」なんて書いたら、
当然×がつくわけだよ。
「具体性がない」と繰り返してるのは、
君がこういう頓珍漢な解答を繰り返してるからに過ぎない。
むしろ、君はなんどやっても同じ指摘をされるね?
ということになるんだ。
アク禁や削除依頼はまともに掲示板上の議論をするときには当たり前のこと。
これを批判するということは、スレッド進行を阻害する意思があるということ?
だったら早々に依頼するけど。
とは言え、君が国語苦手な割に、頑張って具体性を持たそうとした姿勢は評価するので、
今回の書き込みを理由に依頼するのはやめておこう。
俺への反論とは繋がらないけど、一つ建設的な意見もある。
「教養は表面的な知識でなく、内面の変化をもって初めて身につけたと言える」
と言うことを言ってるよね?
ちょっと意訳してるけど、大意は変わらないと思う。
これは具体的にどういうこと?
実例を挙げるとか、それは何故良いのか、
表面的な知識が何故ダメなのか、
その辺をもう少し掘り下げると、より知的な議論ができるよ。
がんがれ!
何度言われても理解できないお粗末な頭じゃ、また具体性がないと言う自分の教養のなさをさらけだす恥ずかしいレスしかできないなら、処置無しだねw
教養というのは、何を読んだ、これを読んだでは、決して身につかない
噛み砕いて咀嚼して捻出出来て始めてみにつくもの
お前の書いた文章はすべて感想文レベルなんだよ、具体性がない具体性がないとわめくが
教養が高卒レベルでも有れば一番最初の文章で、気が付くはず
数レスに渡って恥をさらし続けるのって恥ずかしくないの?
それも分からないほど程度が低いわけ?w
一体本文の入り口でこんなにも理解できない奴のどこに教養があるのか
いいとこ高卒レベルの理解力でコンプレックスがあるんで必死に本読んでるんだろうが、全くの徒労に終わってるね、意図的に朝礼関係の話を無視するあたりから、仕事も底辺だろう
察しがつくよ、まともな職場なら 職場の教養 なんかで毎日接してつはずだからね
噛み砕いて咀嚼して捻出出来て始めてみにつくもの
お前の書いた文章はすべて感想文レベルなんだよ、具体性がない具体性がないとわめくが
教養が高卒レベルでも有れば一番最初の文章で、気が付くはず
数レスに渡って恥をさらし続けるのって恥ずかしくないの?
それも分からないほど程度が低いわけ?w
一体本文の入り口でこんなにも理解できない奴のどこに教養があるのか
いいとこ高卒レベルの理解力でコンプレックスがあるんで必死に本読んでるんだろうが、全くの徒労に終わってるね、意図的に朝礼関係の話を無視するあたりから、仕事も底辺だろう
察しがつくよ、まともな職場なら 職場の教養 なんかで毎日接してつはずだからね
残念ながら教養は国語の授業じゃないんでね、却下 強要がないと指摘されて
なお維持を貼って一切、自分の文章を振り返ることがないことも教養が実践で身についてない証拠
これだけ指摘されてもなお、具体性が無いという世迷い言を続けることがそれを証明してくれる
何をどう言い訳しても、アク禁、削除に頼る事が 此れ又お前の教養のなさを示しているのである
これも揺るぎない事実、何をどう言い繕っても無駄
なお維持を貼って一切、自分の文章を振り返ることがないことも教養が実践で身についてない証拠
これだけ指摘されてもなお、具体性が無いという世迷い言を続けることがそれを証明してくれる
何をどう言い訳しても、アク禁、削除に頼る事が 此れ又お前の教養のなさを示しているのである
これも揺るぎない事実、何をどう言い繕っても無駄
>>85
はい、日本語的に教養は「高まる」が正しいでしょうね。
もし私が増す、という表現をつかってたなら訂正します。
現実的には増す、という表現が意味を持つこともあるかと思いますが、校正として。
教養の循環と仰っていますが、まさにこれは弁証(アウフヘーベン)であり、
オートポイエーシスとも言えますね。
知性は弁証法的に昇華されていく、これは全く同意です。
バランスに関しても大きな反論はありませんが、
大学で一般教養を重視すべきというのは一概に賛同できません。
それこそ大学がカルチャーセンター化して、意義を失いかねませんから。
むしろ、副選考の形で、違う学問系統から一つを選択できるのが個人的には良いかと思います。
身内の話で恐縮ですが、私の友人などは専攻が日本文学ですが、副専攻でマーケティングをやっていまして、
今はある出版でマーケに関わっています。
そういう下地のある実利性は確かにいいと思いますね。
はい、日本語的に教養は「高まる」が正しいでしょうね。
もし私が増す、という表現をつかってたなら訂正します。
現実的には増す、という表現が意味を持つこともあるかと思いますが、校正として。
教養の循環と仰っていますが、まさにこれは弁証(アウフヘーベン)であり、
オートポイエーシスとも言えますね。
知性は弁証法的に昇華されていく、これは全く同意です。
バランスに関しても大きな反論はありませんが、
大学で一般教養を重視すべきというのは一概に賛同できません。
それこそ大学がカルチャーセンター化して、意義を失いかねませんから。
むしろ、副選考の形で、違う学問系統から一つを選択できるのが個人的には良いかと思います。
身内の話で恐縮ですが、私の友人などは専攻が日本文学ですが、副専攻でマーケティングをやっていまして、
今はある出版でマーケに関わっています。
そういう下地のある実利性は確かにいいと思いますね。
>>89
これは元に戻っちゃった。
具体性が皆無。
>>90
これもまだ具体性に乏しいなあ。
前述で「表面的な知識ではダメ」ということを既に書いてるんだから、その域を出ない。
捻出というのはアウトプットするということ?
それとも仕事で活用できないとダメなの?
そうではなく社交で使えるツールであればいいのか?
その辺の細かさが「具体性」なんだよ。
それから、出版業界には普通朝礼はない。
朝礼があるのは体育会系の会社と、いわゆるブルーカラー、販売、飲食などで、
企画系は少ないと思うよ。
どういう仕事してるかわからないけど、視野を広く持つべき
>>91
教養云々する以前に基礎的は必須だよ。
学生時代国語で赤点とってたやつが、勉強もせず急に文章力が身に付いたりすることはない。
後半はこれまでと同じ、お前は出来てない、の一本槍。
そうではなくて、どこがどうだめで、
自分ならどう書き込むのか。
これを細かく言うことが具体性なんだよ。
良い、悪い、などの抽象表現でなく、
何行目のどの箇所がどのようであるが、これはこのようにすべきである、例えば…、
というのをフォーマットに使ってみたらどうかな?
俺が君の書き込みのまずさを指摘するときは必ず、
自分ならどう言い換えるかを考えていつでもリライトできるようにしてる。
これは元に戻っちゃった。
具体性が皆無。
>>90
これもまだ具体性に乏しいなあ。
前述で「表面的な知識ではダメ」ということを既に書いてるんだから、その域を出ない。
捻出というのはアウトプットするということ?
それとも仕事で活用できないとダメなの?
そうではなく社交で使えるツールであればいいのか?
その辺の細かさが「具体性」なんだよ。
それから、出版業界には普通朝礼はない。
朝礼があるのは体育会系の会社と、いわゆるブルーカラー、販売、飲食などで、
企画系は少ないと思うよ。
どういう仕事してるかわからないけど、視野を広く持つべき
>>91
教養云々する以前に基礎的は必須だよ。
学生時代国語で赤点とってたやつが、勉強もせず急に文章力が身に付いたりすることはない。
後半はこれまでと同じ、お前は出来てない、の一本槍。
そうではなくて、どこがどうだめで、
自分ならどう書き込むのか。
これを細かく言うことが具体性なんだよ。
良い、悪い、などの抽象表現でなく、
何行目のどの箇所がどのようであるが、これはこのようにすべきである、例えば…、
というのをフォーマットに使ってみたらどうかな?
俺が君の書き込みのまずさを指摘するときは必ず、
自分ならどう言い換えるかを考えていつでもリライトできるようにしてる。
哲学の本云々以前のレベル
情報の取得の仕方がまるで分かってない
こういう奴は何をどう読んでも時間の無駄
普通高校くらいの知能があれば、これで理解できるか、はっと気がつくが
お前はてんでダメ、一から十まで親切丁寧に指摘しないと
何もわからないなら、それを持ってしてお前の教養のなさ
いやそれ以前の「知識」の欠如を証明している
何を言っても具体性がない具体性がないの一点張り
具体性がないんじゃなく、言われてることが理解できない事に
そろそろ気がつこうね、いや、もう気がついてるけど悔しくて
顔真っ赤なんじゃないの?w
情報の取得の仕方がまるで分かってない
こういう奴は何をどう読んでも時間の無駄
普通高校くらいの知能があれば、これで理解できるか、はっと気がつくが
お前はてんでダメ、一から十まで親切丁寧に指摘しないと
何もわからないなら、それを持ってしてお前の教養のなさ
いやそれ以前の「知識」の欠如を証明している
何を言っても具体性がない具体性がないの一点張り
具体性がないんじゃなく、言われてることが理解できない事に
そろそろ気がつこうね、いや、もう気がついてるけど悔しくて
顔真っ赤なんじゃないの?w
>前述で「表面的な知識ではダメ」ということを既に書いてるんだから、その域を出ない。
>捻出というのはアウトプットするということ?
>それとも仕事で活用できないとダメなの?
>そうではなく社交で使えるツールであればいいのか?
>その辺の細かさが「具体性」なんだよ。
アスペなのか? とっくに書いてあるけど
わかったよ道理で一般的な「大人」として話が通じないか
書いてある事以外理解できない、アスペルガー症候群の方なんだね
こりゃ大変だなw
>教養云々する以前に基礎的は必須だよ。
そうだよ、お前にはそれがないって何回も言ってんじゃんw
まだわかんないの?
>捻出というのはアウトプットするということ?
>それとも仕事で活用できないとダメなの?
>そうではなく社交で使えるツールであればいいのか?
>その辺の細かさが「具体性」なんだよ。
アスペなのか? とっくに書いてあるけど
わかったよ道理で一般的な「大人」として話が通じないか
書いてある事以外理解できない、アスペルガー症候群の方なんだね
こりゃ大変だなw
>教養云々する以前に基礎的は必須だよ。
そうだよ、お前にはそれがないって何回も言ってんじゃんw
まだわかんないの?
>>92
勘違いさせてしまったようで、申し訳ありません。
当該の一文を挿入しましたのは、まさにこの用語法に、教養という言葉が含んでいる意味が象徴的に表れているように感じたからでした。
つまり、教養とは(知のフラット化とは対照的に、「価値的に高い知が存在し、それを身につけた人間は高いステージにあがる」みたいな?)
強く価値に関わること事柄であること。
そして、個人の魂がその高みへと昇る運動を描いたのが、まさにご指摘いただいたヘーゲルでした。
『精神現象学』は、教養小説(ビルドゥングス・ロマン)の一種だという評価があるぐらいですよね。
ヘーゲル自身は、まさに教養こそが個人に社会性を与える、と指摘していますね。
そして、副専攻については、本当に大事ですね。自分が昔お世話になった先生が、
専門の焦点は二つ持っておくべきだとして「楕円的専門性」と名づけていたのを思い出しました。
一方で、くどくて申し訳ないですがw普遍性(みんなが学ぶべき正統な知)を救い出したいという思いが自分にはあります。
仰られたように絶対的な普遍性は存在しない。ですから、普遍性の探求は終わりなき旅、「未完のプロジェクト」なのでしょう。
しかし、それを追求していくプロセスで暫定的なものは見つかるはずです。
例えば。民主主義、人権、自由、といった価値を、現代においてグローバルに(暫定的にであれ)<普遍・正統>のものとすること。
「人権」概念も、当初、女性、有色人種、子どもが含まれていなかったように今から見れば不完全なものだったですね。
しかし、その中身を随時よりよいものに練り上げていくという開放性を条件にした上で「人権」概念は普遍的な価値とすべきものだと思います。
特にアッパークラスの子弟には、民主主義、人権、自由、に関する基礎文献をガンガン読んで学生同士議論してほしいです。
社会的に高い地位につく人間には、自分や企業の利益だけではなく、企業の社会的責任を考える義務があると思います。
まぁ、本を読んだだけで、東電の幹部のような人間がいなくなるわけではないとは思いますがw
勘違いさせてしまったようで、申し訳ありません。
当該の一文を挿入しましたのは、まさにこの用語法に、教養という言葉が含んでいる意味が象徴的に表れているように感じたからでした。
つまり、教養とは(知のフラット化とは対照的に、「価値的に高い知が存在し、それを身につけた人間は高いステージにあがる」みたいな?)
強く価値に関わること事柄であること。
そして、個人の魂がその高みへと昇る運動を描いたのが、まさにご指摘いただいたヘーゲルでした。
『精神現象学』は、教養小説(ビルドゥングス・ロマン)の一種だという評価があるぐらいですよね。
ヘーゲル自身は、まさに教養こそが個人に社会性を与える、と指摘していますね。
そして、副専攻については、本当に大事ですね。自分が昔お世話になった先生が、
専門の焦点は二つ持っておくべきだとして「楕円的専門性」と名づけていたのを思い出しました。
一方で、くどくて申し訳ないですがw普遍性(みんなが学ぶべき正統な知)を救い出したいという思いが自分にはあります。
仰られたように絶対的な普遍性は存在しない。ですから、普遍性の探求は終わりなき旅、「未完のプロジェクト」なのでしょう。
しかし、それを追求していくプロセスで暫定的なものは見つかるはずです。
例えば。民主主義、人権、自由、といった価値を、現代においてグローバルに(暫定的にであれ)<普遍・正統>のものとすること。
「人権」概念も、当初、女性、有色人種、子どもが含まれていなかったように今から見れば不完全なものだったですね。
しかし、その中身を随時よりよいものに練り上げていくという開放性を条件にした上で「人権」概念は普遍的な価値とすべきものだと思います。
特にアッパークラスの子弟には、民主主義、人権、自由、に関する基礎文献をガンガン読んで学生同士議論してほしいです。
社会的に高い地位につく人間には、自分や企業の利益だけではなく、企業の社会的責任を考える義務があると思います。
まぁ、本を読んだだけで、東電の幹部のような人間がいなくなるわけではないとは思いますがw
俺の勝ちだな
こんな糞スレで勝ったの負けただの
幼稚なレスしかできないんだな
幼稚なレスしかできないんだな
それが精一杯か?w
>>94
そんなことない。お前がダメ。
学がある奴ならすぐわかるレベル(笑)
教養以前の問題だ。説明はしないけど。
↑
君の言ってるのはこれと同じ。
具体性がないし、「AだからAである」というトートロジー的循環に陥っている。
誰かを間違っていると言えるのは、
どこがどう間違っていて、正しくはどうだと代替して説明ができるから説得力を持つんだよ。
君のは俺は正しい!お前は違う!理由は言わない!だもの。
>>95
国語の例を出したのは俺の方で、それを否定したのは君でしょうに。
教養以前に国語が必要なんだから、最低限の国語力は必要だといってるんだけど、
それを否定した人が今の段になって肯定し始めるのは
それこそ国語力の不足だよ。
>>98
所詮この程度の人なのです。
Zeroさんを見てれば、具体性のある議論がどういうものかわかるはずなのにね。
とは言え、折角具体性のある書き込みの芽が見えたのに
結局ただの罵倒に終始するはめになってるのは残念な限り。
こういう掲示板でも少しは啓蒙ができると個人的には信じているのですがね。
そんなことない。お前がダメ。
学がある奴ならすぐわかるレベル(笑)
教養以前の問題だ。説明はしないけど。
↑
君の言ってるのはこれと同じ。
具体性がないし、「AだからAである」というトートロジー的循環に陥っている。
誰かを間違っていると言えるのは、
どこがどう間違っていて、正しくはどうだと代替して説明ができるから説得力を持つんだよ。
君のは俺は正しい!お前は違う!理由は言わない!だもの。
>>95
国語の例を出したのは俺の方で、それを否定したのは君でしょうに。
教養以前に国語が必要なんだから、最低限の国語力は必要だといってるんだけど、
それを否定した人が今の段になって肯定し始めるのは
それこそ国語力の不足だよ。
>>98
所詮この程度の人なのです。
Zeroさんを見てれば、具体性のある議論がどういうものかわかるはずなのにね。
とは言え、折角具体性のある書き込みの芽が見えたのに
結局ただの罵倒に終始するはめになってるのは残念な限り。
こういう掲示板でも少しは啓蒙ができると個人的には信じているのですがね。
>>96
さて、本題です(笑)
なるほどなるほど、先の意図はよく理解できました。
そこにも、大きく反論はないのですが、
敢えて申し上げるなら、という程度において
普遍性を求める姿勢や、人権や自由を求めるというべき論に
ややイデア論的というか、制約めいたものを感じなくもありません。
前述のように、私は教養をある意味では単純なツールとして用いることも“アリ”と思ってますし!
ことさらに自由や人権をとりあげるつもりもないです。
(と言うと誤解がありそうですが、飽くまで知の探求という一事において)
ただ、極論を言うと、人権を否定する人がいたとして、
そういう人であろうと、啓蒙思想の流れやフランス革命史の基本程度は知っておく必要があるでしょう。
そここそが共通言語であると思います。
さて、本題です(笑)
なるほどなるほど、先の意図はよく理解できました。
そこにも、大きく反論はないのですが、
敢えて申し上げるなら、という程度において
普遍性を求める姿勢や、人権や自由を求めるというべき論に
ややイデア論的というか、制約めいたものを感じなくもありません。
前述のように、私は教養をある意味では単純なツールとして用いることも“アリ”と思ってますし!
ことさらに自由や人権をとりあげるつもりもないです。
(と言うと誤解がありそうですが、飽くまで知の探求という一事において)
ただ、極論を言うと、人権を否定する人がいたとして、
そういう人であろうと、啓蒙思想の流れやフランス革命史の基本程度は知っておく必要があるでしょう。
そここそが共通言語であると思います。
>>101
仰るとおり、共通言語ですね。と同時に、共通言語を成立させる基盤(メタレベルのプラットフォーム)であるとも言えると思います。
すなわち、民主主義、人権、自由、を批判する者もまた、
それらの価値に依拠することによって、はじめてその批判(という意見表明を)をなしうる。
そもそも某国のような?「表現の自由」がない言論統制国家では、自由な意見表明やコミュニケーション自体が困難なのですから。
さて。だいたい教養について自分の思うところは書き尽くしてしまいました。
>>5の方や>>11でSAROさんが仰られているように、本当に出力(アウトプット)が大切ですね。
おかげさまで、教養についてレス交換させていただいたことで、いろいろ勉強させていただきました。
くわえて触発されまして、教養についてもっと学んで知りたくなりました。
お付き合いいただき、本当にありがとうございます。
そして。他の方、長文ばかりでスレを占領してしまい、すいませんm(_ _)m
どうも自分は短くまとめるのが苦手なようでw
ところで。このスレで真面目なことばかり書いちゃったんで、他でエロい書き込みとか、しにくくなっちゃったな・・・
こういうときコテハンは困るw
仰るとおり、共通言語ですね。と同時に、共通言語を成立させる基盤(メタレベルのプラットフォーム)であるとも言えると思います。
すなわち、民主主義、人権、自由、を批判する者もまた、
それらの価値に依拠することによって、はじめてその批判(という意見表明を)をなしうる。
そもそも某国のような?「表現の自由」がない言論統制国家では、自由な意見表明やコミュニケーション自体が困難なのですから。
さて。だいたい教養について自分の思うところは書き尽くしてしまいました。
>>5の方や>>11でSAROさんが仰られているように、本当に出力(アウトプット)が大切ですね。
おかげさまで、教養についてレス交換させていただいたことで、いろいろ勉強させていただきました。
くわえて触発されまして、教養についてもっと学んで知りたくなりました。
お付き合いいただき、本当にありがとうございます。
そして。他の方、長文ばかりでスレを占領してしまい、すいませんm(_ _)m
どうも自分は短くまとめるのが苦手なようでw
ところで。このスレで真面目なことばかり書いちゃったんで、他でエロい書き込みとか、しにくくなっちゃったな・・・
こういうときコテハンは困るw
書物を読めば教養がつくと思うって、典型的な低学歴が抱く幻想だよ
本に書いてある内容に対して「理解できる、理解できない」「賛成だ、反対だ」などと機械的に自分の意見を述べて終わるだけではとーしろwwww
著者がなぜそのような考えを持つに至ったのか、そのプロセスを自身でもトレースしてこそ本は読む価値がある。
著者がなぜそのような考えを持つに至ったのか、そのプロセスを自身でもトレースしてこそ本は読む価値がある。
それはもう上に書いたけどね
>>103=104=105
中学生だから、こんなことは根拠にならないよね。
相手の発言を批判するなら、どこがどう間違ってる、正しくはこうだ、
という論理的で具体的な説明があるから成り立つ。
「お前は間違ってる、小学生レベルだ!」では根拠も何もないのよ。
「〜する以前の問題」
これも同様で何の説明にもなっていない。
例えば「パソコンを使う以前の問題」なら
その前段階としてワープロをやってなきゃならんのか、
電子機器になれてなきゃいかんのか、
ロジカルシンキングができなきゃいかんのか、
具体的な指摘がいくらでもできる。
対して君の「以前の問題」にはワープロやロジカルシンキングに当たる具体的な部分が丸でないのよ。
それどころか、「以前の問題だ」「中学生レベル」
のようなことを具体的な指摘とさえ思ってるような印象を受ける。
途中で、少し具体的に歩み寄ろうとした努力があったのに、どうしちゃったの?諦めたの?
違うというなら、中学生レベルだとか、以前の問題だとか
知性の欠けた表現をせずに反論してみたらよいと思うよ。
中学生だから、こんなことは根拠にならないよね。
相手の発言を批判するなら、どこがどう間違ってる、正しくはこうだ、
という論理的で具体的な説明があるから成り立つ。
「お前は間違ってる、小学生レベルだ!」では根拠も何もないのよ。
「〜する以前の問題」
これも同様で何の説明にもなっていない。
例えば「パソコンを使う以前の問題」なら
その前段階としてワープロをやってなきゃならんのか、
電子機器になれてなきゃいかんのか、
ロジカルシンキングができなきゃいかんのか、
具体的な指摘がいくらでもできる。
対して君の「以前の問題」にはワープロやロジカルシンキングに当たる具体的な部分が丸でないのよ。
それどころか、「以前の問題だ」「中学生レベル」
のようなことを具体的な指摘とさえ思ってるような印象を受ける。
途中で、少し具体的に歩み寄ろうとした努力があったのに、どうしちゃったの?諦めたの?
違うというなら、中学生レベルだとか、以前の問題だとか
知性の欠けた表現をせずに反論してみたらよいと思うよ。
全部もう上に書いたけどね
「〜する以前の問題」
教養を語る以前に中学レベルの「人格形成」が出来てない
故にいくら書籍から教養を得ようとしても無駄
ちなみに、書籍を読めば教養を獲得できると安易に考えるのも中卒のテンプレ行動
教養を語る以前に中学レベルの「人格形成」が出来てない
故にいくら書籍から教養を得ようとしても無駄
ちなみに、書籍を読めば教養を獲得できると安易に考えるのも中卒のテンプレ行動
相変わらず、具体性がないなあ。
読解力がない、というなら、
どこがどうと具体的に言わないと根拠が希
薄。
場末の掲示板、に至っては唐突すぎて
論理性以前の問題だ(笑)
君はまともに議論ができないから、
具体性のない罵倒や無関係な逃げ道を作っ
て
お茶を濁すことしかできないんだよ。
中学生レベルとか、DQNとか頭悪い言葉遣
いなしに議論を展開できないの?
そんなんでいいなら俺でも言える。
こんな言葉遣いをしてる時点で小学生レベ
ル。
少なくとも低学歴なのは間違いない。
↑
こんなこと言っても意味ないだろ?
だから頭いい人は具体的に展開しようとす
るわけ。
読解力がない、というなら、
どこがどうと具体的に言わないと根拠が希
薄。
場末の掲示板、に至っては唐突すぎて
論理性以前の問題だ(笑)
君はまともに議論ができないから、
具体性のない罵倒や無関係な逃げ道を作っ
て
お茶を濁すことしかできないんだよ。
中学生レベルとか、DQNとか頭悪い言葉遣
いなしに議論を展開できないの?
そんなんでいいなら俺でも言える。
こんな言葉遣いをしてる時点で小学生レベ
ル。
少なくとも低学歴なのは間違いない。
↑
こんなこと言っても意味ないだろ?
だから頭いい人は具体的に展開しようとす
るわけ。
書いてあるのに具体性がない具体性がないって一生逃げてればいいんじゃないの
そんな奴に「教養」が身につくわけないw
そんな奴に「教養」が身につくわけないw
社会に出て、人より多く金稼ぐには勉強するしかない。
金の為に勉強するのが一番早く身につく。
クラスにも成績で役職付ければ、おもしろいかもな。
先生が会長、1番が社長、専務常務と続き、10番以下は平社員
平から専務に昇進すれば、学校中のニュースになる(笑)
金の為に勉強するのが一番早く身につく。
クラスにも成績で役職付ければ、おもしろいかもな。
先生が会長、1番が社長、専務常務と続き、10番以下は平社員
平から専務に昇進すれば、学校中のニュースになる(笑)
「教養」といわれるものを身につけたいが
何を勉強すればいいかわからない、という時間のある若者は
とりあえず英語とコンピュータ(プログラミング)と会計学を本気で勉強しておけば
のちのち役に立つでしょう
何を勉強すればいいかわからない、という時間のある若者は
とりあえず英語とコンピュータ(プログラミング)と会計学を本気で勉強しておけば
のちのち役に立つでしょう
それ教養じゃねーだろ
ホモはホモサイトへ
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スレッドタイトル:学問の仕方・教養の身につけ方