ところで、質問ばかりしてしまったので、自分の考えも少しばかり開陳させていただきます。
まず、教養とは何か、という定義の問題ですが、もともとの意味にあるように「自己(人格)の成長」や「社会の創造」と結びついた概念であるべきだと思ってます。
まず、「自己の成長」についてですが、
上の方でも他の方が、教養には、知識や情報はもちろん、「対人関係能力」も含まれると指摘されています。
現在の教育や就活の場面で、コミュ力や人間力が重視されるように、これは「社会に上手く『適応』するための能力・教養」という考え方です。
しかし、自分が考える「自己(人格)の成長」とは、それとは少し違い、「脱俗的」な側面を含んでいます。
それは「人格者」という言葉が、「金儲けが上手い人」、「世渡りが上手い人」など「世俗の価値にそった人」を指していないのと同様です。
すなわち、教養は、現在の社会を『相対化』しうるような「自己の成長」をも目的とする。
自分の生き方の原理原則を確立し、時に間違っていると思えば、「あえて空気を読まない」という形で周囲の風潮に「水をさす」。
そのような自己を形成するためにこそ教養は存在すると考えます。
そして次に、「社会の創造」についてですが、
「お金につながらなければ(知識としての)教養など意味がない」とか、
「仕事や社交に役立たなければ(知識としての)教養など道具として意味がない」といった価値観がもし社会に蔓延しているのだとしたら、
そういった社会の価値観を見直し、自分の生き方を見直すことをこそ目指すのが教養だと思います。
(・・・もちろん、お金や仕事といった実益をないがしろにするのではなく、それも大事にしながら、という話ですね。食っていけなきゃ仕方ないですしw)
ゆえに、この社会の構成員である以上、この社会で自分がどう生きるべきか(成長すべきか)、この社会がどういう社会であるべきか、
を考えるための教養は、押し付けてでも身につけさせる必要があると思っています(少なくとも社会を動かす層にいる人間には)。
自分は、こういった価値観や規範から選択した普遍的な(趣味とは違ってみんなが身につけるべき)正統の文化が存在すると考えます。
例えば、先にあげたプラトンなどは民主主義社会を生きるわれわれにとって、『正統な』教養だと思います。
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