哲学を学ぶ意義や、教養を帯びる意味については
私に限定して問われたものでは無いかと思いますので、
あくまで私見と枕した上で書きますが、
日本のアッパークラスの人間が傾向として読んでいるような哲学書はおそらくないでしょう。
戦前まではデカルト、カント、ショーペンハウエルの
いわゆる“デカンショ”が流行ったわけですが、
エリート学生の多くが読んでいた、ということでは無かったそうです。
西田哲学についても同様で、いわゆるポストモダンの潮流の中で持て囃されたブームの一つであった側面も否定できないでしょう。
もちろん、京大の哲学研究科に在籍していて
西田幾太郎をかじったことすらない人は居ないでしょうが…。
そういう意味では多様化する価値観の中での知的会話を可能にする共通の認識として、「教養」があるとするなら、
それは「巨人・大鵬・卵焼き」ではなく、
「野球あるいはベースボール・相撲・スイーツ」と集合されるべきものです。
あるいはもっと広いのかも。
酒飲みとして共通認識を持つのであれば、
酒の銘柄や種類を問わず、量も問わず、行きつけのランクも問わず、
ただ酒を飲めば良いのです。
頑なに日本酒でないといけないと言うこともなければ、
こじゃれたバーやダイニングである必要性もありません。
もっともさらに限定化された狭義の酒飲み、ということであれば
さらに付帯した条件がついてくるのやもしれませんが、
個人的には教養というものにそこまで杓子定規な制約を定めてはおりません。
教養を学ぶ意義については千差万別で悪いことはなかろうと思いますが、
個人的には知的欲求の充足でもあり、思考の錬成でもあり、
社交やビジネス上のツールでもあり、
現在の環境における義務でもあり、
もちろん自己満足でもありますね。
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