>>92 勘違いさせてしまったようで、申し訳ありません。
当該の一文を挿入しましたのは、まさにこの用語法に、教養という言葉が含んでいる意味が象徴的に表れているように感じたからでした。
つまり、教養とは(知のフラット化とは対照的に、「価値的に高い知が存在し、それを身につけた人間は高いステージにあがる」みたいな?)
強く価値に関わること事柄であること。
そして、個人の魂がその高みへと昇る運動を描いたのが、まさにご指摘いただいたヘーゲルでした。
『精神現象学』は、教養小説(ビルドゥングス・ロマン)の一種だという評価があるぐらいですよね。
ヘーゲル自身は、まさに教養こそが個人に社会性を与える、と指摘していますね。
そして、副専攻については、本当に大事ですね。自分が昔お世話になった先生が、
専門の焦点は二つ持っておくべきだとして「楕円的専門性」と名づけていたのを思い出しました。
一方で、くどくて申し訳ないですがw普遍性(みんなが学ぶべき正統な知)を救い出したいという思いが自分にはあります。
仰られたように絶対的な普遍性は存在しない。ですから、普遍性の探求は終わりなき旅、「未完のプロジェクト」なのでしょう。
しかし、それを追求していくプロセスで暫定的なものは見つかるはずです。
例えば。民主主義、人権、自由、といった価値を、現代においてグローバルに(暫定的にであれ)<普遍・正統>のものとすること。
「人権」概念も、当初、女性、有色人種、子どもが含まれていなかったように今から見れば不完全なものだったですね。
しかし、その中身を随時よりよいものに練り上げていくという開放性を条件にした上で「人権」概念は普遍的な価値とすべきものだと思います。
特にアッパークラスの子弟には、民主主義、人権、自由、に関する基礎文献をガンガン読んで学生同士議論してほしいです。
社会的に高い地位につく人間には、自分や企業の利益だけではなく、企業の社会的責任を考える義務があると思います。
まぁ、本を読んだだけで、東電の幹部のような人間がいなくなるわけではないとは思いますがw
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