学問の仕方・教養の身につけ方


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001 2012/07/01(日) 19:01:58 ID:QtMoUv82mg
本を読むだけじゃ全然知識として定着しない
本をノートに要約したって結局それは本に書いてることだから二度手間
知識人の話を聞くのも本を読むのと同じ
受験のための勉強じゃない、教養のための勉強ってどうすればいいですか?
テストの点数のための勉強じゃない、学問を修めるための勉強ってどうすればいいですか?

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061 2013/08/28(水) 22:46:59 ID:8oy7xFrc9k
>>59
それも具体性の無い書き込み。
反論にはならんよ。

>>60
フランスが極端な格差社会とも思いませんが、
仰る通り、日本は唯一成功した社会主義国家と揶揄されるくらいで、
英米のような格差社会でないのは事実です。

とは言え、恒常的な読書習慣などはほとんど学歴と比例するもので、
階層の違いによる教養の差は少なくとも集団傾向として存在すると言わざるを得ないでしょう。
三田の学生の話が出てますが、
松下の創業者神話ではないのですから、学生の全てが福沢諭吉を読んでおく必要は余り感じません。
文学部に限定して、漱石鴎外を読んだことある人という質問にすれば
もっと割合は増えていたことでしょう。
もしかすると最近の学生の凋落は私が考えている以上に激しいのかもしれませんが(笑

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062 2013/08/28(水) 23:06:46 ID:8oy7xFrc9k
哲学を学ぶ意義や、教養を帯びる意味については
私に限定して問われたものでは無いかと思いますので、
あくまで私見と枕した上で書きますが、

日本のアッパークラスの人間が傾向として読んでいるような哲学書はおそらくないでしょう。
戦前まではデカルト、カント、ショーペンハウエルの
いわゆる“デカンショ”が流行ったわけですが、
エリート学生の多くが読んでいた、ということでは無かったそうです。
西田哲学についても同様で、いわゆるポストモダンの潮流の中で持て囃されたブームの一つであった側面も否定できないでしょう。
もちろん、京大の哲学研究科に在籍していて
西田幾太郎をかじったことすらない人は居ないでしょうが…。

そういう意味では多様化する価値観の中での知的会話を可能にする共通の認識として、「教養」があるとするなら、
それは「巨人・大鵬・卵焼き」ではなく、
「野球あるいはベースボール・相撲・スイーツ」と集合されるべきものです。
あるいはもっと広いのかも。

酒飲みとして共通認識を持つのであれば、
酒の銘柄や種類を問わず、量も問わず、行きつけのランクも問わず、
ただ酒を飲めば良いのです。
頑なに日本酒でないといけないと言うこともなければ、
こじゃれたバーやダイニングである必要性もありません。
もっともさらに限定化された狭義の酒飲み、ということであれば
さらに付帯した条件がついてくるのやもしれませんが、
個人的には教養というものにそこまで杓子定規な制約を定めてはおりません。

教養を学ぶ意義については千差万別で悪いことはなかろうと思いますが、
個人的には知的欲求の充足でもあり、思考の錬成でもあり、
社交やビジネス上のツールでもあり、
現在の環境における義務でもあり、
もちろん自己満足でもありますね。

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