>>84 普遍性については、仰っていただいた通り大きな差異はないようですね。
もし違いがあるとすれば、自分はSAROさんより価値相対主義に対する疑問(苛立ち?w)が強いかもしれないな・・・と思いました。
日本では、80年代の浅田彰あたりから始まるいわゆるニューアカブームでポストモダン、ポスト構造主義などの思想が輸入され、
すべての価値が宙吊りにされましたね。そういった「価値崩し・ハシゴはずし」の作業は30年近く延々と現在まで続いていると思います。
いわく「普遍的な価値、正しさ、善・・・」そういったものは全て(人が勝手に構築した)フィクションである云々。
ゆえに、「それぞれの島宇宙の中でそれぞれの人たちが勝手につくり上げた特殊で限定的な「普遍性」を叫んでいるにすぎないのであって、
各島宇宙間を貫通するような本物の<普遍性>などは存在しないのだから、自分の「普遍性」を相手に押し付けてはならない」
という多文化主義的な主張が今最も説得力のあるもの、ということになっていると思います。
しかし、それは一方で、自分の拠って立つ地盤の瓦解、アイデンティティの不安をもたらし、
「ハシゴはずし」の宙吊り状態に耐えられなくなった人たちを大量に生み出したように思います。
すなわち、「フィクションなんてわかってるよ。でも、人間がフィクションなしに生きていけると考えたら大間違いだ。
たとえば、「国家」の概念がフィクションだったとして、ソレなしに今生きていけるか?
だから、俺たちの島宇宙では俺たちが勝手に自分たちの好きな「普遍性・正当性」の物語をつくりあげて生きていって何が悪い?」
挙句、「日本人は日本人のためのフィクションのなかで生きればいいのであって、『日本神話を義務教育のなかで教えるべきだ』」
というような話も出てくるようになる。
こういった「島宇宙内ひきこもり」と「島宇宙間のコミュニケーションの断絶」に自分は疑問を感じます。
そういった意味で、各島宇宙間に共通する<普遍性>を探すことに、今より積極的であるべきではないかと思っています。
まずは普遍性云々以前に、物量の面だけでも、教科書をより充実させたり、大学でも一般教養をもっと重視すべきだと考えていますが。
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