このスレでは、特に強権的な為政の場合に「支配」、
無為自然主体の為政の場合に「統治」という言葉を用いることにする。
封建統治か封建支配かでいえば、もちろん封建統治のほうがいい。
だとするなら、権力犯罪支配と軍事支配の二つこそを是とするべきでない。
この二つこそは封建制を強権支配へと深刻化させるものでもあるため、
封建制との癒着をできる限り防いで行くようにすべきだといえる。
儒学による為政も、支配とまではいかない柔弱な統治に止められるに越したこと
はないのであり、宗教化された儒学=儒教に基づく強権支配などが講じられた
とすれば、孔孟までもが眉をひそめるものであると考えてしかるべきなのだ。
その意向に適った範囲での儒学統治と、異端の学やカルト宗教による
強権支配こそは決して相容れるものではなく、特に儒学の学説と決定的に
相反する邪説暴言の集大成を教義としている聖書信仰による支配と、
儒学による統治こそは決して両立することができないものである。
聖書信仰による支配であれ軍事支配であれ、強権支配であることには変わりない。
ただ、自分が軍事独裁による強権支配だけはイヤだという場合に、にも関わらず
自分たちが聖書信仰を固持しているというのでは、これは軍事独裁を被ることが
避けられなくなったとしても、全くの自業自得でしかないといえる。
聖書信仰に固執している以上は、儒学や仏教に基づく弱権統治も受容し得ない。
封建制すらあってないようなものとしてしまえる柔弱統治の指針となり得る教学
が実行力を発揮する芽を、自分たちで始めから摘んでしまっているわけだから、
自ら進んで苛烈な強権支配を選択しようとしているとも見なすほかはない。
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