郷原(田舎者の偽善者)
▼ページ最下部
きょう‐げん〔キヤウ‐〕【郷原/郷愿】
道徳家を装って、郷里の評判を得ようとする俗物。
(「大辞泉」より)
「郷原は徳の賊なり」
「田舎者の偽善者は、かえって徳行の邪魔をする」
(「論語」陽貨第十七・一三より)
ド田舎の土佐で、半士半商の郷士の家に生まれ育ち、
幕末の動乱期に最大級のフィクサーとして暗躍した坂本龍馬。
薩長同盟によって、薩摩が長州の捏造した偽勅で東進することを援助し、
大阪堺の三井住友といった豪商から資金を借りた薩軍が、武器商人のグラバーから
重火器を購入することをも斡旋し、以って倒幕を決定付ける最重要人物となったが、
その所業は江戸時代までの日本の常識からいえば、とうてい許されるものではなく、
実際に龍馬は中岡慎太郎と共に、京都の近江屋で惨殺されている。龍馬の所業は、
紛れもなく「郷原(田舎者の偽善者)」としての自己の性格に根ざしたものであり、
天下国家の公益などにまではとうてい視野が及ばないその世間知らずさは、今の
日本の政財界や警察といった権力機構にも、体質として受け継がれたままでいる。
今の日本の権力機構における、最たる病理ともなっている「郷原」の蔓延。
日本の権力腐敗を仮に浄化するというのであれば、郷原の蔓延こそを
駆逐していくことが最重要課題になることも間違いがない。そのための
知識なり、手法なり、心構えなりについて、一通り論じておこうと思う。
道徳家を装って、郷里の評判を得ようとする俗物。
(「大辞泉」より)
「郷原は徳の賊なり」
「田舎者の偽善者は、かえって徳行の邪魔をする」
(「論語」陽貨第十七・一三より)
ド田舎の土佐で、半士半商の郷士の家に生まれ育ち、
幕末の動乱期に最大級のフィクサーとして暗躍した坂本龍馬。
薩長同盟によって、薩摩が長州の捏造した偽勅で東進することを援助し、
大阪堺の三井住友といった豪商から資金を借りた薩軍が、武器商人のグラバーから
重火器を購入することをも斡旋し、以って倒幕を決定付ける最重要人物となったが、
その所業は江戸時代までの日本の常識からいえば、とうてい許されるものではなく、
実際に龍馬は中岡慎太郎と共に、京都の近江屋で惨殺されている。龍馬の所業は、
紛れもなく「郷原(田舎者の偽善者)」としての自己の性格に根ざしたものであり、
天下国家の公益などにまではとうてい視野が及ばないその世間知らずさは、今の
日本の政財界や警察といった権力機構にも、体質として受け継がれたままでいる。
今の日本の権力機構における、最たる病理ともなっている「郷原」の蔓延。
日本の権力腐敗を仮に浄化するというのであれば、郷原の蔓延こそを
駆逐していくことが最重要課題になることも間違いがない。そのための
知識なり、手法なり、心構えなりについて、一通り論じておこうと思う。
坂本龍馬や中岡慎太郎、武市瑞山や岩崎弥太郎といった土佐藩の郷士(白札、地下浪人含む)は、
ただ郷原であるというだけでなく、「元祖郷原」である秦人の系譜をも汲んでいる。
孔子が「論語」で「郷原」と呼んだのも、春秋戦国時代における秦人のような、夏殷周の流れを汲む
正統な道徳規範を解さない田舎者だったわけで、秦人はその中でも、正統な道徳などを解さないままに
勢力だけを付け、覇権主義者としてほんの15年間だけ中国全土を完全征服するまでに至った勢力に当たる。
秦人の人情にかける強権支配は、スケープゴートを失った統一帝国を樹立した途端に一挙に瓦解し、
悪辣な苛政によって中原の民たちを痛めつけてきた秦人は、一転して掃討の対象となった。
その一部は日本にも「秦氏」として渡来し、始めのうちは豪族として朝廷での辣腕を振るうも、
仁徳に欠ける郷原としての体質がやはり日本でも忌み嫌われて、乙巳の変や大化の改新で
排除対象とされ、その主要な勢力は殺されるなり中央を追われるなりし、辛うじて一部の秦氏が
地下扱いの下級貴族として、朝廷に止め置かれるという処分を被ることとなった。
ただ郷原であるというだけでなく、「元祖郷原」である秦人の系譜をも汲んでいる。
孔子が「論語」で「郷原」と呼んだのも、春秋戦国時代における秦人のような、夏殷周の流れを汲む
正統な道徳規範を解さない田舎者だったわけで、秦人はその中でも、正統な道徳などを解さないままに
勢力だけを付け、覇権主義者としてほんの15年間だけ中国全土を完全征服するまでに至った勢力に当たる。
秦人の人情にかける強権支配は、スケープゴートを失った統一帝国を樹立した途端に一挙に瓦解し、
悪辣な苛政によって中原の民たちを痛めつけてきた秦人は、一転して掃討の対象となった。
その一部は日本にも「秦氏」として渡来し、始めのうちは豪族として朝廷での辣腕を振るうも、
仁徳に欠ける郷原としての体質がやはり日本でも忌み嫌われて、乙巳の変や大化の改新で
排除対象とされ、その主要な勢力は殺されるなり中央を追われるなりし、辛うじて一部の秦氏が
地下扱いの下級貴族として、朝廷に止め置かれるという処分を被ることとなった。
地方に逃げ延びた秦氏の主要勢力のうちでも、朝廷の権限が及ぶ地域に落ち伸びた秦氏は、
被差別部落としての扱いを受けるなどの運命に見舞われたが、土佐国はあまりにも山地が狭隘すぎて、
その山間にまでは朝廷の権限が及ばなかったため、その山間の長岡(今の高知県大豊町付近)に
逃げ延びた秦氏が、また新たな勢力を身に付け始めるに至った。これが「長宗我部氏」の起源である。
土佐藩郷士は、この長宗我部の流れを汲む勢力であり、とうてい士人として扱うに足らないほどにも
世間知らずで俗物然としたその性格が、江戸期に入封した山内氏にも忌み嫌われて、正規の士族としての
扱いを江戸時代の間、ずっと拒絶され続けてきた。幕末における土佐藩郷士の暗躍は、その鬱屈こそを
原動力としている所もあるが、だとした所で郷原であることにも違いはなく、私利私欲のためには他者を
平気で蹴落としもするその残忍さが「いろは丸事件」などにおいて発揮され、多くの人々からの激烈な
怨みや怒りを買い、龍馬や慎太郎を含む土佐藩郷士は、幕末期にまるで虫けらのように殺され尽くして、
明治以降には、公権力者としてそれほど大きな勢力を擁することもできなかった。
しかし、その郷原としての性格は、龍馬の暗躍ありきで国家権力を掌握することができた薩長藩閥勢力や、
士族ではなく商人としての振る舞いに徹したために生き延びられた、岩崎弥太郎の興した三菱などに引き継がれ、
郷原としての体質だけがまるで亡霊のようにして、近現代の日本の権力機構にも巣食ったままでい続けている。
被差別部落としての扱いを受けるなどの運命に見舞われたが、土佐国はあまりにも山地が狭隘すぎて、
その山間にまでは朝廷の権限が及ばなかったため、その山間の長岡(今の高知県大豊町付近)に
逃げ延びた秦氏が、また新たな勢力を身に付け始めるに至った。これが「長宗我部氏」の起源である。
土佐藩郷士は、この長宗我部の流れを汲む勢力であり、とうてい士人として扱うに足らないほどにも
世間知らずで俗物然としたその性格が、江戸期に入封した山内氏にも忌み嫌われて、正規の士族としての
扱いを江戸時代の間、ずっと拒絶され続けてきた。幕末における土佐藩郷士の暗躍は、その鬱屈こそを
原動力としている所もあるが、だとした所で郷原であることにも違いはなく、私利私欲のためには他者を
平気で蹴落としもするその残忍さが「いろは丸事件」などにおいて発揮され、多くの人々からの激烈な
怨みや怒りを買い、龍馬や慎太郎を含む土佐藩郷士は、幕末期にまるで虫けらのように殺され尽くして、
明治以降には、公権力者としてそれほど大きな勢力を擁することもできなかった。
しかし、その郷原としての性格は、龍馬の暗躍ありきで国家権力を掌握することができた薩長藩閥勢力や、
士族ではなく商人としての振る舞いに徹したために生き延びられた、岩崎弥太郎の興した三菱などに引き継がれ、
郷原としての体質だけがまるで亡霊のようにして、近現代の日本の権力機構にも巣食ったままでい続けている。
∧_∧
⊂(´・ω・`)つ-、
/// /_/:::::/ てか、武市半平太のほうが共感出来るし
|:::|/⊂ヽノ|:::| /」
/ ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
/______/ | |
| |-----------| |
⊂(´・ω・`)つ-、
/// /_/:::::/ てか、武市半平太のほうが共感出来るし
|:::|/⊂ヽノ|:::| /」
/ ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
/______/ | |
| |-----------| |
武市瑞山(半平太)は、土佐藩郷士の中でも筆頭格の「白札」であり、待遇も正規家臣並みとされていた。
それだけに、他の郷士以上にも武士らしい振る舞いを心がけようとはしていたようだが、
やはり郷原としての本性には抗えず、武士としては許しがたい「結党」という所業にも及んでいる。
「君子は〜群して党せず」
「君子は大勢でいることはあっても、私的に徒党派閥を組んだりはしない」
(「論語」衛霊公第十五・二二より)
数多の郷士の勢いにも押されて、「土佐勤王党」という徒党を結成し、その盟主ともなった武市半平太。
武家社会において結党行為が大罪とされているのは、赤穂浪士討ち入り事件における切腹処分などからも
知られていたことなのに、土佐みたいな田舎で江戸の常識は通用しないとでも思ったのか、地元土佐での
忠節すら疎かなままに、朝廷を祭り上げての徒党を編成するなどという暴挙に及んだ。
この点では、一匹狼や、慎太郎とのコンビなどに終始した龍馬のほうが、
まだマシであるとすらいえ、まるで「早く人間になりたい」妖怪人間のようにして、
郷士筆頭の白札たる武市半平太もまた、武家のなり損ないに止まったのだった。
それだけに、他の郷士以上にも武士らしい振る舞いを心がけようとはしていたようだが、
やはり郷原としての本性には抗えず、武士としては許しがたい「結党」という所業にも及んでいる。
「君子は〜群して党せず」
「君子は大勢でいることはあっても、私的に徒党派閥を組んだりはしない」
(「論語」衛霊公第十五・二二より)
数多の郷士の勢いにも押されて、「土佐勤王党」という徒党を結成し、その盟主ともなった武市半平太。
武家社会において結党行為が大罪とされているのは、赤穂浪士討ち入り事件における切腹処分などからも
知られていたことなのに、土佐みたいな田舎で江戸の常識は通用しないとでも思ったのか、地元土佐での
忠節すら疎かなままに、朝廷を祭り上げての徒党を編成するなどという暴挙に及んだ。
この点では、一匹狼や、慎太郎とのコンビなどに終始した龍馬のほうが、
まだマシであるとすらいえ、まるで「早く人間になりたい」妖怪人間のようにして、
郷士筆頭の白札たる武市半平太もまた、武家のなり損ないに止まったのだった。
近現代、特に現代の日本で頻繁に囁かれる「道徳なんか古い」
「道徳なんか権力者が捏造した虚構」などというような言葉。
これはもう、2500年前に秦人などが言い張っていた、道徳に
対するネガティブキャンペーンとも、全く同等の代物となっている。
郷原こそは、世間知らずからなる暴挙によって、道徳の通用しない乱世をもたらす。
自分たちが道徳の通用しない事態をもたらしておいて、「道徳なんか古い」などと
いうような言葉を吐くのは、郷原には自分たちの姿すらもが全く見えていないからだ。
郷原は、自分たちが道徳を知らない状態のままで世間に打って出て、
自分たちの暴挙によって即座に道徳の通用しない乱世をもたらすわけだから、
郷原は郷原である限りにおいて、真の道徳を一貫して察知しないままでい続けるのである。
道徳が通用する世の中の快さ、道徳を守ることのすがすがしさなども
始めから知らないから、道徳に対する否定的な言葉を吐きもする。
その郷原の仕業によって、道徳の通用しない乱世へと変貌させられた都市社会においても、
50年も経てば世代が完全に交代して、都市社会の人間までもが
始めから道徳などを知らないままに生まれ育った人間ばかりと化してしまう。
そうなるともう、天下国家の様相を十分に見据えることでこそわきまえられる
本物の仁義道徳が、都市と田舎とに関わらず、天下全土において忘れ去られ、
道徳なんか始めから知ったこっちゃない、郷原の常識のほうが一般化してしまうのである。
だからこそ、自分たちこそは道徳の毀損者でもある、郷原どもの恥知らずな物言い、
「道徳なんか古い」だのといった虚言のほうが、今では通用してしまっているのである。
(郷原は始めから道徳など知らないのだから、道徳を知った風な物言いからして虚言でしかない)
「道徳なんか権力者が捏造した虚構」などというような言葉。
これはもう、2500年前に秦人などが言い張っていた、道徳に
対するネガティブキャンペーンとも、全く同等の代物となっている。
郷原こそは、世間知らずからなる暴挙によって、道徳の通用しない乱世をもたらす。
自分たちが道徳の通用しない事態をもたらしておいて、「道徳なんか古い」などと
いうような言葉を吐くのは、郷原には自分たちの姿すらもが全く見えていないからだ。
郷原は、自分たちが道徳を知らない状態のままで世間に打って出て、
自分たちの暴挙によって即座に道徳の通用しない乱世をもたらすわけだから、
郷原は郷原である限りにおいて、真の道徳を一貫して察知しないままでい続けるのである。
道徳が通用する世の中の快さ、道徳を守ることのすがすがしさなども
始めから知らないから、道徳に対する否定的な言葉を吐きもする。
その郷原の仕業によって、道徳の通用しない乱世へと変貌させられた都市社会においても、
50年も経てば世代が完全に交代して、都市社会の人間までもが
始めから道徳などを知らないままに生まれ育った人間ばかりと化してしまう。
そうなるともう、天下国家の様相を十分に見据えることでこそわきまえられる
本物の仁義道徳が、都市と田舎とに関わらず、天下全土において忘れ去られ、
道徳なんか始めから知ったこっちゃない、郷原の常識のほうが一般化してしまうのである。
だからこそ、自分たちこそは道徳の毀損者でもある、郷原どもの恥知らずな物言い、
「道徳なんか古い」だのといった虚言のほうが、今では通用してしまっているのである。
(郷原は始めから道徳など知らないのだから、道徳を知った風な物言いからして虚言でしかない)
今の高知県人にあたる土佐人とはまた別種の郷原として、今の鹿児島県人にあたる薩摩人がある。
土佐人が「大悪を為す郷原」であったのに対し、薩摩人は「善を為せない郷原」であった。
正規の武士としての身分すら認められていない土佐藩郷士とは違い、薩摩藩士は正規の武士だった。
のみならず、全国のうちでも最も知行などの面で恵まれた立場にあった藩士であり、朱子学や陽明学
などの道徳学に対する教養もそれなりにあったことが、その歴史的な事跡を見ても明らかである。
にもかかわらず、薩摩藩士らが幕末にも郷原止まりな振る舞いしか出来なかったのは、
薩摩人が「女系の血筋の優秀さ」と、「男系の血筋の頭打ち」という問題を抱えていたからだ。
土佐人が「大悪を為す郷原」であったのに対し、薩摩人は「善を為せない郷原」であった。
正規の武士としての身分すら認められていない土佐藩郷士とは違い、薩摩藩士は正規の武士だった。
のみならず、全国のうちでも最も知行などの面で恵まれた立場にあった藩士であり、朱子学や陽明学
などの道徳学に対する教養もそれなりにあったことが、その歴史的な事跡を見ても明らかである。
にもかかわらず、薩摩藩士らが幕末にも郷原止まりな振る舞いしか出来なかったのは、
薩摩人が「女系の血筋の優秀さ」と、「男系の血筋の頭打ち」という問題を抱えていたからだ。
薩摩藩は江戸時代、琉球王国との外交を一手に引き受けていた。琉球は、王朝を擁していればこそ
大陸からも優秀な血筋の嫁を多数流入させていた。そのおこぼれに薩摩人も多少は与っていため、
(薩摩藩士による琉球娘の暴行に対抗して、琉球でも民間防衛としての唐手も発達した)
琉球と同じく薩摩にも、才色兼備な女性が多い。一方、薩摩藩主の島津氏はといえば、
朝廷から正式に派遣された系統とはいえ、下級貴族となっていた秦氏の末裔であるため、
男系にかけて「秦氏止まり」という、どうにも決まりの付かない国情のままでいた。
女は、どんなに個人的に優秀であったところで、所詮は「婦人の仁」まででしかあり得ない。
天下国家万人の公益を慮る仁徳というのは、どこまでも父親から受け継がれるものであって、
母親から受け継がれるものではない。そのため女系は激烈に優秀でも、男系は所詮秦氏止まりな薩摩人には、
大善を為すことがだけがどうしてもできない、匹夫の勇、婦人の仁の持ち主が多くなってしまった。
この傾向は、古代の中国で言えば「楚人」と呼ばれる類いの人種に近似していて、世界一有名な
楚人である項羽も、匹夫の勇と婦人の仁しか持ち合わせていない郷原だったものだから、天下を得ることが
できなかった。秦人や土佐人のような大悪を為す郷原と比べればまだ害も少ないにしろ、どうしても
大善を為せない「去勢の呪縛」に囚われた郷原であったことが、楚人や薩摩人にかけても間違いなく、
「罪がある」という以上にも「徳がない」ということにかけて、恥を知らねばならないことが確かなのである。
大陸からも優秀な血筋の嫁を多数流入させていた。そのおこぼれに薩摩人も多少は与っていため、
(薩摩藩士による琉球娘の暴行に対抗して、琉球でも民間防衛としての唐手も発達した)
琉球と同じく薩摩にも、才色兼備な女性が多い。一方、薩摩藩主の島津氏はといえば、
朝廷から正式に派遣された系統とはいえ、下級貴族となっていた秦氏の末裔であるため、
男系にかけて「秦氏止まり」という、どうにも決まりの付かない国情のままでいた。
女は、どんなに個人的に優秀であったところで、所詮は「婦人の仁」まででしかあり得ない。
天下国家万人の公益を慮る仁徳というのは、どこまでも父親から受け継がれるものであって、
母親から受け継がれるものではない。そのため女系は激烈に優秀でも、男系は所詮秦氏止まりな薩摩人には、
大善を為すことがだけがどうしてもできない、匹夫の勇、婦人の仁の持ち主が多くなってしまった。
この傾向は、古代の中国で言えば「楚人」と呼ばれる類いの人種に近似していて、世界一有名な
楚人である項羽も、匹夫の勇と婦人の仁しか持ち合わせていない郷原だったものだから、天下を得ることが
できなかった。秦人や土佐人のような大悪を為す郷原と比べればまだ害も少ないにしろ、どうしても
大善を為せない「去勢の呪縛」に囚われた郷原であったことが、楚人や薩摩人にかけても間違いなく、
「罪がある」という以上にも「徳がない」ということにかけて、恥を知らねばならないことが確かなのである。
自分にも、いかにも郷原然とした知り合いが何人かいるが、
郷原には根本的な知恵がない。人として最低限わきまえて置くべき重要な
知恵が決定的に抜け落ちていながら、我流でこしらえた浅知恵や悪知恵だけは
多量に蓄積していて、しかもその全ての知恵が虚構止まりであるために、
話し合った所で、何ひとつとして溜飲の下がるところがない。
そして何より、気勢が半端ない。自らの不埒者としての度し難さに非難が
及ぶことを徹底して妨害し続けるために、場の空気を完全に飲み込んで
しまうほどもの、気勢の甚だしさをどこまでも保ち続けようとする。
世間知らずの田舎者だからといって、必ずしも郷原(田舎者の偽善者)になるわけではない。
何も知らないカッペとしての身の程をよくわきまえて、人の言うことを神妙によく聞いて、
大まかな判断だけを自分でする司令官としての立場に徹したなら、空っぽの大器である
田舎者こそは、都会人以上もの大成すらもが期待できるというもの。にもかかわらず、
無知な田舎者としての自己を開き直って、誰にも耳を貸さないほどもの虚勢と共に、
我流の浅知恵を駆使する仕事人として振舞おうとするから、郷原ともなってしまう。
郷原は不治の病ではなく、治そうと思えば治せる病であり、治した先には
都会人以上もの大成すらもが期待できる。そこまでもの教訓を十分に頒布していく
ことができて初めて、自己防衛本能も極大級に旺盛な、郷原体質の持ち主たちによる
権力腐敗に対しても、摘発のメスを入れていくことが可能になるといえる。
郷原には根本的な知恵がない。人として最低限わきまえて置くべき重要な
知恵が決定的に抜け落ちていながら、我流でこしらえた浅知恵や悪知恵だけは
多量に蓄積していて、しかもその全ての知恵が虚構止まりであるために、
話し合った所で、何ひとつとして溜飲の下がるところがない。
そして何より、気勢が半端ない。自らの不埒者としての度し難さに非難が
及ぶことを徹底して妨害し続けるために、場の空気を完全に飲み込んで
しまうほどもの、気勢の甚だしさをどこまでも保ち続けようとする。
世間知らずの田舎者だからといって、必ずしも郷原(田舎者の偽善者)になるわけではない。
何も知らないカッペとしての身の程をよくわきまえて、人の言うことを神妙によく聞いて、
大まかな判断だけを自分でする司令官としての立場に徹したなら、空っぽの大器である
田舎者こそは、都会人以上もの大成すらもが期待できるというもの。にもかかわらず、
無知な田舎者としての自己を開き直って、誰にも耳を貸さないほどもの虚勢と共に、
我流の浅知恵を駆使する仕事人として振舞おうとするから、郷原ともなってしまう。
郷原は不治の病ではなく、治そうと思えば治せる病であり、治した先には
都会人以上もの大成すらもが期待できる。そこまでもの教訓を十分に頒布していく
ことができて初めて、自己防衛本能も極大級に旺盛な、郷原体質の持ち主たちによる
権力腐敗に対しても、摘発のメスを入れていくことが可能になるといえる。
すでに幕末の動乱から140年以上の月日が経ち、江戸生まれの人間も全て死に絶えたいま、
「始めから仁徳など少しも知らない」郷原の常識こそは、日本全国全国民にとっての常識ともなってしまった。
明治から昭和初期の戦前にかけてまでは、あからさまな薩長土肥の放伐行為に非を唱えて、賊将として戦死した
西郷隆盛などが、「比較的マシな郷原」として英雄扱いをされたりもしていたが、敗戦後、米英による本格侵略が
始まって後は、ロスチャイルド系列の武器商人であるグラバーに尻尾を振って、倒幕を決定付ける威力をも呼び込んだ
「近世日本史上最悪の郷原」たる坂本龍馬などが英雄視されるようになり、陸奥宗光の「龍馬さんのほうが西郷
などよりも遥かに大きな人物に見えた」などという証言にも即して、龍馬こそは西郷以上の英雄であったかの
ような触れ回りまでもが一部で為されるまでに至っている。(戦前までは、さすがに土佐藩士の所業は
あまりにも非道でありすぎると認識されていたため、英雄視されたりすることもほとんどなかった)
龍馬を絶賛する戦後の有名人などの言い分として、「江戸時代までの旧態依然とした日本社会に新しい風を
呼び込んだ」というのがあるが、これもまた全くの無知か、もしくはひどいすっとぼけに基づいた発言だといえる。
(武田鉄也あたりは無知に基づき、司馬遼太郎あたりは知った上でのすっとぼけに基づいていると思われる)
「始めから仁徳など少しも知らない」郷原の常識こそは、日本全国全国民にとっての常識ともなってしまった。
明治から昭和初期の戦前にかけてまでは、あからさまな薩長土肥の放伐行為に非を唱えて、賊将として戦死した
西郷隆盛などが、「比較的マシな郷原」として英雄扱いをされたりもしていたが、敗戦後、米英による本格侵略が
始まって後は、ロスチャイルド系列の武器商人であるグラバーに尻尾を振って、倒幕を決定付ける威力をも呼び込んだ
「近世日本史上最悪の郷原」たる坂本龍馬などが英雄視されるようになり、陸奥宗光の「龍馬さんのほうが西郷
などよりも遥かに大きな人物に見えた」などという証言にも即して、龍馬こそは西郷以上の英雄であったかの
ような触れ回りまでもが一部で為されるまでに至っている。(戦前までは、さすがに土佐藩士の所業は
あまりにも非道でありすぎると認識されていたため、英雄視されたりすることもほとんどなかった)
龍馬を絶賛する戦後の有名人などの言い分として、「江戸時代までの旧態依然とした日本社会に新しい風を
呼び込んだ」というのがあるが、これもまた全くの無知か、もしくはひどいすっとぼけに基づいた発言だといえる。
(武田鉄也あたりは無知に基づき、司馬遼太郎あたりは知った上でのすっとぼけに基づいていると思われる)
「孔子曰く、我が門を過ぎ、我が室に入らざるも、我れ憾まざるは、其れ惟だ卿原か。郷原は徳の賊なりと」
「孔子はこう言ったという。『たとえうちの門前を通り過ぎる時に立ち寄ってくれなくても、少しも残念に
思わなくて済むのは、 田舎者の偽善者あたりかな。田舎の偽善者こそは、徳をそこなう最たるものだから』」
(「孟子」尽心章句下・三七より)
坂本龍馬のような、田舎者としての世間知らずさをバネにして非道をはたらく暴徒は、遥か昔、孔子や孟子が
存命中だった頃から「郷原」としてその存在性が察知されていたのであり、孔子に至っては、「徳の賊」としての
郷原の度し難さに対して、上記のようなあからさまな嫌悪感すら隠さないでいる。郷原やその支持者が「すでに古い」と
決め付ける仁義道徳、その仁義道徳の最初期の研究者たる孔子こそは、郷原の有害無益さまでをも看破していたのであり、
むしろ郷原こそは、仁徳者の知恵に根ざして、後々から糾弾や活動の取り締まりの対象となることのほうが筋だといえる。
郷原が、田舎者としての劣等感をもバネにして世界的な覇権掌握に乗り出すことすらもがあることもまた、
古代の秦人の所業などからも知られていたことで、ただ覇権ばかりに固執して徳治を疎かにするその度し難さが
長期政権を得させるにも値しないものだから、覇権よりも徳治を優先する王道主義のほうが選択的に尊ばれていたわけで、
郷原こそは広範囲にわたる侵攻を実現させたこともまた、決して仁徳者の意表を突けたりしているわけではない。
「孔子はこう言ったという。『たとえうちの門前を通り過ぎる時に立ち寄ってくれなくても、少しも残念に
思わなくて済むのは、 田舎者の偽善者あたりかな。田舎の偽善者こそは、徳をそこなう最たるものだから』」
(「孟子」尽心章句下・三七より)
坂本龍馬のような、田舎者としての世間知らずさをバネにして非道をはたらく暴徒は、遥か昔、孔子や孟子が
存命中だった頃から「郷原」としてその存在性が察知されていたのであり、孔子に至っては、「徳の賊」としての
郷原の度し難さに対して、上記のようなあからさまな嫌悪感すら隠さないでいる。郷原やその支持者が「すでに古い」と
決め付ける仁義道徳、その仁義道徳の最初期の研究者たる孔子こそは、郷原の有害無益さまでをも看破していたのであり、
むしろ郷原こそは、仁徳者の知恵に根ざして、後々から糾弾や活動の取り締まりの対象となることのほうが筋だといえる。
郷原が、田舎者としての劣等感をもバネにして世界的な覇権掌握に乗り出すことすらもがあることもまた、
古代の秦人の所業などからも知られていたことで、ただ覇権ばかりに固執して徳治を疎かにするその度し難さが
長期政権を得させるにも値しないものだから、覇権よりも徳治を優先する王道主義のほうが選択的に尊ばれていたわけで、
郷原こそは広範囲にわたる侵攻を実現させたこともまた、決して仁徳者の意表を突けたりしているわけではない。
薬は毎日必ず飲めよ。
郷原には「調和」がない。
何もすることがない田舎育ちの習性として、
「とりあえず口ごたえなどして争っておく」、争乱を面白がる習性がある。
それは、本格的な武器もなければ市場もない、田舎であればさして害にもならないが、
争いごとが大規模な戦争や資本寡占などにもつながる都市社会では、大きな害を招く原因ともなる。
暇つぶしで争いごとを好む郷原としての習性が、土佐人の場合は資本家としての
富の貪りにつながり、薩摩人の場合は軍人や警官などとしての好戦志向につながった。
未だ欧米の資本主義者のような、「競争不参加者を迫害する競争主義者」が存在する手前、
郷原としての競争志向が「必要悪」として国のために役立っている所もあるが、
さりとて、田舎だからこそ許されていた「暇つぶしの競争志向」が、人口が億を超える国家社会に
適用されたことからなる国民や諸外国民の疲弊もまた半端ではなく、いざ欧米が音を上げて
競争の中止を請うて来たとするならば、国家レベルでの体質改善のための粛正もまた、避けられるものではない。
何もすることがない田舎育ちの習性として、
「とりあえず口ごたえなどして争っておく」、争乱を面白がる習性がある。
それは、本格的な武器もなければ市場もない、田舎であればさして害にもならないが、
争いごとが大規模な戦争や資本寡占などにもつながる都市社会では、大きな害を招く原因ともなる。
暇つぶしで争いごとを好む郷原としての習性が、土佐人の場合は資本家としての
富の貪りにつながり、薩摩人の場合は軍人や警官などとしての好戦志向につながった。
未だ欧米の資本主義者のような、「競争不参加者を迫害する競争主義者」が存在する手前、
郷原としての競争志向が「必要悪」として国のために役立っている所もあるが、
さりとて、田舎だからこそ許されていた「暇つぶしの競争志向」が、人口が億を超える国家社会に
適用されたことからなる国民や諸外国民の疲弊もまた半端ではなく、いざ欧米が音を上げて
競争の中止を請うて来たとするならば、国家レベルでの体質改善のための粛正もまた、避けられるものではない。
郷原は別に宗教家ではない。特定の信教を拠り所にしていたりするわけでもない
のにも関わらず、欧米のキリスト教徒やユダヤ教徒との資本主義競争にも没等し、
日本や中国の庶民階級の、豊富な労働力の嵩にかかっての経済的圧倒にすら及びもした。
(自分たち自身はあくまでこき使う側であり、生産的な労働などには従事していない)
聖書信仰の源流を成した古代ユダヤ人も「中東の郷原」だったと言えなくもないわけで、
世間知らずなままに、大規模な都市社会を悪知恵で甚大な争乱に巻き込む習性は、
洋の東西や古今を問わず、郷原の度し難さこそを源流としていることまでもが分かる。
さすがに、500年以上もの世界侵略のキャリアがあることからも、世界レベルでの
侵略支配では、日本の郷原などよりも聖書教徒のほうが未だ優勢状態にあるといえる。
しかし、世界でも最大級に優勢であり続けているからこそ、聖書信者こそは富の不均衡
が極大化している、いまの地球社会の責任を真っ先に負わなければならないといえる。
一人当たりが占有している地球上の資産が、一人前の平均値を大きく上回っている国の
ほとんどは欧米聖書圏であり、辛うじて日本や、中東の金持ち組合国などが食い込んで
いる状態にある。当然まずは、欧米聖書圏が現状の転換を承諾しなければならないが、
その後、金持ちばかりで占められていたからこそ富裕度が突出していたUAEなどの中東諸国は、
合議的な解体を行うことが奨励される。日本はといえば、他でもない郷原性分の人種を
権力の座から引き摺り下ろすことで、資本主義国としての看板を下ろすことが要求される。
そこから、公的に全地球社会総出を挙げての、富の再分配が始められていくことになる
わけで、再分配に際しての決まりの悪さなどを払拭していくためにも、聖書圏においては
聖書信仰の完全な根絶、中東諸国においては金持ち組合国の解体、そして日本においては
徹底的な郷原の跳梁跋扈の取締りといった責務を果たしていく必要がある。
のにも関わらず、欧米のキリスト教徒やユダヤ教徒との資本主義競争にも没等し、
日本や中国の庶民階級の、豊富な労働力の嵩にかかっての経済的圧倒にすら及びもした。
(自分たち自身はあくまでこき使う側であり、生産的な労働などには従事していない)
聖書信仰の源流を成した古代ユダヤ人も「中東の郷原」だったと言えなくもないわけで、
世間知らずなままに、大規模な都市社会を悪知恵で甚大な争乱に巻き込む習性は、
洋の東西や古今を問わず、郷原の度し難さこそを源流としていることまでもが分かる。
さすがに、500年以上もの世界侵略のキャリアがあることからも、世界レベルでの
侵略支配では、日本の郷原などよりも聖書教徒のほうが未だ優勢状態にあるといえる。
しかし、世界でも最大級に優勢であり続けているからこそ、聖書信者こそは富の不均衡
が極大化している、いまの地球社会の責任を真っ先に負わなければならないといえる。
一人当たりが占有している地球上の資産が、一人前の平均値を大きく上回っている国の
ほとんどは欧米聖書圏であり、辛うじて日本や、中東の金持ち組合国などが食い込んで
いる状態にある。当然まずは、欧米聖書圏が現状の転換を承諾しなければならないが、
その後、金持ちばかりで占められていたからこそ富裕度が突出していたUAEなどの中東諸国は、
合議的な解体を行うことが奨励される。日本はといえば、他でもない郷原性分の人種を
権力の座から引き摺り下ろすことで、資本主義国としての看板を下ろすことが要求される。
そこから、公的に全地球社会総出を挙げての、富の再分配が始められていくことになる
わけで、再分配に際しての決まりの悪さなどを払拭していくためにも、聖書圏においては
聖書信仰の完全な根絶、中東諸国においては金持ち組合国の解体、そして日本においては
徹底的な郷原の跳梁跋扈の取締りといった責務を果たしていく必要がある。
「郷原体質の持ち主」という、抽象的な人物像を問題視しているのだから、
あたかも特定の現役の人物に対する誹謗であるかのように扱われる筋合いもない。
あまりにも身に覚えかあり過ぎて、まるで自分が非難されているかのように感じて
しまったとしても、別に俺がおまえを特定して郷原として扱った覚えなどもない。
坂本龍馬に直系の子孫はいないし、岩崎弥太郎の子孫もすでに三菱の経営は退いている。
そして仮に、歴史に名高い郷原の子孫が現役であったとしたところで、その子孫が
今の世の中でも、人並み以上に度し難い郷原体質の持ち主であるとも限らない。
いま郷原体質の持ち主に占有されていることが濃厚な、官公庁なり企業なりの組織も、
中には体質改善に取り組もうとしている人間もいるかもしれないし、郷原体質の親
からの世襲で、自然とそこに居座ってしまっているだけだったりもするかもしれない。
今の世の中、地理的に田舎者だからといって必ずしも郷原体質とも限らなければ、
都会人だからといって郷原体質ではないとも限らないのも、>>6に書いたとおり。
田舎者でも郷原ではなく、器量の大きい司令官などとして大成する余地があることも
>>9に書いた通りなわけだから、特定の「不可避に郷原とならざるを得なかった者」
などに対する非難の意図などは少しもないことが分かる。郷原は、どこまでも
自己責任でしかなく、進んでヤクザやマフィアになろうとする者を取り締まるよう
にして、郷原体質の持ち主の跋扈もまた抑制されていかなければならないものだ。
あたかも特定の現役の人物に対する誹謗であるかのように扱われる筋合いもない。
あまりにも身に覚えかあり過ぎて、まるで自分が非難されているかのように感じて
しまったとしても、別に俺がおまえを特定して郷原として扱った覚えなどもない。
坂本龍馬に直系の子孫はいないし、岩崎弥太郎の子孫もすでに三菱の経営は退いている。
そして仮に、歴史に名高い郷原の子孫が現役であったとしたところで、その子孫が
今の世の中でも、人並み以上に度し難い郷原体質の持ち主であるとも限らない。
いま郷原体質の持ち主に占有されていることが濃厚な、官公庁なり企業なりの組織も、
中には体質改善に取り組もうとしている人間もいるかもしれないし、郷原体質の親
からの世襲で、自然とそこに居座ってしまっているだけだったりもするかもしれない。
今の世の中、地理的に田舎者だからといって必ずしも郷原体質とも限らなければ、
都会人だからといって郷原体質ではないとも限らないのも、>>6に書いたとおり。
田舎者でも郷原ではなく、器量の大きい司令官などとして大成する余地があることも
>>9に書いた通りなわけだから、特定の「不可避に郷原とならざるを得なかった者」
などに対する非難の意図などは少しもないことが分かる。郷原は、どこまでも
自己責任でしかなく、進んでヤクザやマフィアになろうとする者を取り締まるよう
にして、郷原体質の持ち主の跋扈もまた抑制されていかなければならないものだ。
>>6でもすでに取り上げた、「道徳なんか権力者が捏造した虚構でしかない」
という郷原の言い分、これは、郷原たち自身こそが善悪の区別、徳や罪
といったものを自分たちで勝手に定義するならず者であることに根ざした、
「自分のことをまるで他人のことのようにあげつらう虚言」の一種なのである。
「史記」李斯列伝に、宦官の趙高が二世皇帝となる前の胡亥に対し、
「衛国の君主に父を殺して即位した者がいます。孔子はこの行いを歴史書
『春秋』に記録しましたが、別段『不孝である』などとも評しませんでした」
と言い、兄を謀殺しての秦帝国皇帝への即位を促したという記録がある。
このような事実は、一切ない。孔子が衛国の主君の父殺しを「春秋」に記録しただとか、
記録にしたにもかかわらず「不孝である」などとは指摘しなかったとかいう以前に、
そもそも衛国の主君が父を殺して即位したなどという史実自体が、存在しない。
これは、始皇帝の子供のうちでは暗愚なほうだった胡亥を秦の皇帝に仕立て上げて、
自らの傀儡にして甘い汁を吸おうとした、宦官趙高自身の虚言であり、法規のみならず、
道徳規範すらをも自分たちで勝手に捏造しようとした郷原の振る舞いの実例となっている。
上記の宦官趙高のように、郷原は自分たちこそが、道徳規範すらをも捏造しようとする。
夏殷周の伝統に根ざした本物の仁義道徳はといえば、天地万物を司る普遍道理を把捉した
易の法則などにも根ざして、着実に構築されて来たものであり、決して自己流の捏造
などによって拵えられたものではないわけだが、郷原のほうはといえば、こちらこそが
上記の趙高のように、適当に道徳をも捏造し、私利私欲のためには、時に父兄殺しや
主君殺しすら「道徳的に認められるもの」にしてしまう。そこにこそ確かに、
信用のおけない虚構の道徳が存在するのであり、適当に我流で捏造した道徳規範
などを振りかざすのも、どこまでも井の中の蛙たる郷原たちだけでしかないのである。
という郷原の言い分、これは、郷原たち自身こそが善悪の区別、徳や罪
といったものを自分たちで勝手に定義するならず者であることに根ざした、
「自分のことをまるで他人のことのようにあげつらう虚言」の一種なのである。
「史記」李斯列伝に、宦官の趙高が二世皇帝となる前の胡亥に対し、
「衛国の君主に父を殺して即位した者がいます。孔子はこの行いを歴史書
『春秋』に記録しましたが、別段『不孝である』などとも評しませんでした」
と言い、兄を謀殺しての秦帝国皇帝への即位を促したという記録がある。
このような事実は、一切ない。孔子が衛国の主君の父殺しを「春秋」に記録しただとか、
記録にしたにもかかわらず「不孝である」などとは指摘しなかったとかいう以前に、
そもそも衛国の主君が父を殺して即位したなどという史実自体が、存在しない。
これは、始皇帝の子供のうちでは暗愚なほうだった胡亥を秦の皇帝に仕立て上げて、
自らの傀儡にして甘い汁を吸おうとした、宦官趙高自身の虚言であり、法規のみならず、
道徳規範すらをも自分たちで勝手に捏造しようとした郷原の振る舞いの実例となっている。
上記の宦官趙高のように、郷原は自分たちこそが、道徳規範すらをも捏造しようとする。
夏殷周の伝統に根ざした本物の仁義道徳はといえば、天地万物を司る普遍道理を把捉した
易の法則などにも根ざして、着実に構築されて来たものであり、決して自己流の捏造
などによって拵えられたものではないわけだが、郷原のほうはといえば、こちらこそが
上記の趙高のように、適当に道徳をも捏造し、私利私欲のためには、時に父兄殺しや
主君殺しすら「道徳的に認められるもの」にしてしまう。そこにこそ確かに、
信用のおけない虚構の道徳が存在するのであり、適当に我流で捏造した道徳規範
などを振りかざすのも、どこまでも井の中の蛙たる郷原たちだけでしかないのである。
「郷党では歯に如くは莫し」
「郷里程度の小さな仲間内では、年齢の長幼以上に普遍的な拠り所となる基準はない」
(「孟子」公孫丑章句下・二より)
郷里程度の仲間内であればこそ、親や年長者を敬うことが第一とされるものなのに、郷原は
その小さな仲間内においてこそ、色々な手管を尽くしての人気取りなどを試みる。それがすでに
世の中の基本原理をわきまえていない有り様だから、世の中にとっても百害あって一利もない。
郷里では唖かと見紛うほどにも悌順な振る舞いを尽くし、大国の政治舞台などにおいてこそ、
有能な仕事人としての本領を発揮する、それでこそ両者において立派だといえるわけだが、
今の政治家などは、まるで郷里での人気取りをそのまま政界などに持ち込んだような、
あべこべに稚拙な振る舞いばかりを披露している。まるで親兄弟を出し抜こうとするか
のような態度で、大衆を相手にした政治にまで及ぼうとするから、浮ついても見えるのである。
「郷里程度の小さな仲間内では、年齢の長幼以上に普遍的な拠り所となる基準はない」
(「孟子」公孫丑章句下・二より)
郷里程度の仲間内であればこそ、親や年長者を敬うことが第一とされるものなのに、郷原は
その小さな仲間内においてこそ、色々な手管を尽くしての人気取りなどを試みる。それがすでに
世の中の基本原理をわきまえていない有り様だから、世の中にとっても百害あって一利もない。
郷里では唖かと見紛うほどにも悌順な振る舞いを尽くし、大国の政治舞台などにおいてこそ、
有能な仕事人としての本領を発揮する、それでこそ両者において立派だといえるわけだが、
今の政治家などは、まるで郷里での人気取りをそのまま政界などに持ち込んだような、
あべこべに稚拙な振る舞いばかりを披露している。まるで親兄弟を出し抜こうとするか
のような態度で、大衆を相手にした政治にまで及ぼうとするから、浮ついても見えるのである。
「漢書」帝紀・昭帝紀・元鳳元年の三月、孝昭皇帝が諸国から選抜していた
五人の礼儀作法に長ける義士に土産(錦)を与えて、故郷に帰らせる記録がある。
そこで昭帝は、「官職よりも孝悌の道に励むことで、郷里の模範となるがよい」と
義士たちに激励の言葉を述べ、故郷の郡県での正月の大宴会の催しを許可してもいる。
中央の都市国家での為政のような大業に従事することで、君父の尊位の大社会における
紛うことなき存在意義を実地面から計り知ることができた義士たちに、「故郷に錦を飾る」
の言葉通りに錦を持たせて帰郷させ、三綱五常に根ざした本物の仁徳の教化にも務めさせたのだ。
郷原が、田舎者としての世間知らずさを都会にまで持ち込んで、仁徳を始めから無きものの如く
覆い隠してしまうのとは逆に、大都会での徳行によってこそ把捉される、君臣父子の道義関係に
根ざした本物の仁徳を片田舎の郷里にまで普及させていくという、古き良き時代の慣習。
それぐらいであってから初めて、郷原が世の中にもたらす災禍も未然に食い止められるに違いない。
当時の漢帝国の内政と比べれば、日本の徳川幕府の外様冷遇なども徳治の則に適っていたとは言い難く、
どちらかといえば「三略」などの兵法に準拠していたといえる。漢朝は名実共なる「帝業」であった
一方、徳川幕府は名目上「将軍の業」であった格の違いが、こういった点に現れていると言える。
五人の礼儀作法に長ける義士に土産(錦)を与えて、故郷に帰らせる記録がある。
そこで昭帝は、「官職よりも孝悌の道に励むことで、郷里の模範となるがよい」と
義士たちに激励の言葉を述べ、故郷の郡県での正月の大宴会の催しを許可してもいる。
中央の都市国家での為政のような大業に従事することで、君父の尊位の大社会における
紛うことなき存在意義を実地面から計り知ることができた義士たちに、「故郷に錦を飾る」
の言葉通りに錦を持たせて帰郷させ、三綱五常に根ざした本物の仁徳の教化にも務めさせたのだ。
郷原が、田舎者としての世間知らずさを都会にまで持ち込んで、仁徳を始めから無きものの如く
覆い隠してしまうのとは逆に、大都会での徳行によってこそ把捉される、君臣父子の道義関係に
根ざした本物の仁徳を片田舎の郷里にまで普及させていくという、古き良き時代の慣習。
それぐらいであってから初めて、郷原が世の中にもたらす災禍も未然に食い止められるに違いない。
当時の漢帝国の内政と比べれば、日本の徳川幕府の外様冷遇なども徳治の則に適っていたとは言い難く、
どちらかといえば「三略」などの兵法に準拠していたといえる。漢朝は名実共なる「帝業」であった
一方、徳川幕府は名目上「将軍の業」であった格の違いが、こういった点に現れていると言える。
「曰く、交、鄒君に見ゆるを得ば、以て館を仮る可し。願くば留まりて
業を門に受けん。曰く、夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。
人求めざるを病うるのみ。子帰りて而も之を求めば、余れる師有らん」
「曹交『私も鄒の殿様に謁見して宿舎を借りようと思いますので、できれば先生もここに留まって
学問振興を試みていただきたいのですが』 孟先生『道理というものは広大な路のようなもので、
知ろうにも知りがたいようなものではない。ただ誰もそれを求めようとすらしないのが問題であるだけだ。
あなたも国に帰って道理を求めすらしたならば、いくらでもあなたの師となる人物はいることだろう』」
(「孟子」告子章句下・二)
井の中の蛙であるのをいいことに、虚しい偽善を振りかざすような輩もいる一方で、
本当に人の師たるに相応しい人間もまた、そこら中の田舎にすら余るほどいるというのだ。
ちょうど、「人間社会における最小単位の善玉人物や悪玉人物」とでもいったところ。いずれも
遍在することには違いないから、善玉を尊んで悪玉を除けていく日頃からの心がけがあるべきだといえる。
業を門に受けん。曰く、夫れ道は大路の若く然り。豈に知り難からんや。
人求めざるを病うるのみ。子帰りて而も之を求めば、余れる師有らん」
「曹交『私も鄒の殿様に謁見して宿舎を借りようと思いますので、できれば先生もここに留まって
学問振興を試みていただきたいのですが』 孟先生『道理というものは広大な路のようなもので、
知ろうにも知りがたいようなものではない。ただ誰もそれを求めようとすらしないのが問題であるだけだ。
あなたも国に帰って道理を求めすらしたならば、いくらでもあなたの師となる人物はいることだろう』」
(「孟子」告子章句下・二)
井の中の蛙であるのをいいことに、虚しい偽善を振りかざすような輩もいる一方で、
本当に人の師たるに相応しい人間もまた、そこら中の田舎にすら余るほどいるというのだ。
ちょうど、「人間社会における最小単位の善玉人物や悪玉人物」とでもいったところ。いずれも
遍在することには違いないから、善玉を尊んで悪玉を除けていく日頃からの心がけがあるべきだといえる。
諸子百家のなかで、傘地蔵が
儒学ばっかり引用するんはなんでなん?
儒学ばっかり引用するんはなんでなん?
森野「真面目にそんなこと考えてるの? だって私達ガチレズなのよ?ふふふ」
▲ページ最上部
ログサイズ:36 KB 有効レス数:26 削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
知識/学問掲示板に戻る 全部 次100 最新50
スレッドタイトル:郷原(田舎者の偽善者)