おまいら論語から何を学んだ?


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001 2011/12/28(水) 10:19:19 ID:mvnSsm/.bY
ん?

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015 2011/12/31(土) 01:13:27 ID:OwVo2hgz5o:au
女の怨みは底なし
男の誠意は際限なし

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016 2011/12/31(土) 03:43:28 ID:Oeh6i.uHv.
>>14
そうだったな。
ただのフリだったのは忘れていたよ。

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017 2011/12/31(土) 12:16:29 ID:6LrZ1pEO4I
俺が怨んでんじゃない。
むしろ最大級に呪われかねない立場だ。

「古女房に尻をひっぱたかれて」ってな。

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018 2012/01/01(日) 15:01:44 ID:918/XcyCXY
武家の夫婦の絆は、死んでも切れない。

君臣の義、父子の親、夫婦の序の三綱の、何たる偉大さ。

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019 2012/01/03(火) 04:13:24 ID:7fa3lZLZiA
日本人のすごいところは、江戸時代の庶民の江戸川柳かなんかにあると最近つくづく思う。
あの人たちは、儒学の権化武家を実際に見て相手して、多少は見習おうとし、
そして結局そんなまどろっこしい事言ってないで己が人生楽しむ事が一番って悟ってる。
為政者、管理者としては儒教は最高の道理哲学の一つなんだろうけど、
地下の庶民に取っては論語でそんな事言ってたなあ位で良いんじゃない。

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020 2012/01/03(火) 06:50:46 ID:TqPJBDyy9s:au
いつの時代も、最底辺に道徳は要らない。
草を食む羊か、牛豚のように蒙昧でいても構わない。

下から二番目以上ともなれば、途端に道徳が要る。
少しでも人の上に立つ人間たらんとした時点で、すでに道徳は必須である。

道徳抜きで人の上に立とうとする所に、鬼畜が生まれる。
本来、人間社会に居てはならない所の、鬼畜が。

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021 2012/01/03(火) 09:11:34 ID:7fa3lZLZiA
>>20
>>いつの時代も、最底辺に道徳は要らない。

そんな事無いだろ。
日本人の民度の高さは、底辺に道徳心が有ってこそだろ。
戦国期、幕末期に日本にやって来た西欧人が
おしなべて同時期の西欧と比べて庶民の道徳心に感心してるのは何故だ。
それに、
形而上の事を笑い飛ばすには、それを実践していないまでも知っていないと出来ない事だぞ。

まあ、でも
>>道徳抜きで人の上に立とうとする所に、鬼畜が生まれる。
は、完全に同意する。
更に言うと、昔は社会的上位の人に鬼畜が居たが、
今は家庭内上位(親)の中にも鬼畜が居るから暗澹たる気持ちになるな。

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022 2012/01/03(火) 09:50:10 ID:TqPJBDyy9s:au
いいや、日本人の庶民の道徳心の高さこそは、かつての権力道徳者たちの道徳心の高さの映し鏡でこそある。

今こそは、権力者が道徳心のかけらもない鬼畜の集まりと化してしまっている時代であり、
庶民のほうが江戸時代までの武士による徳化によって育まれた民度の高さによって、
何とか日本の文化水準を一定以下にまで下落させないように奮闘している状態にある。

上の人間に道徳心があれば、下の人間にも自然と道徳心が備わるし、その逆もまた然り。
今は上に立つ権力者ほど、道徳心をかなぐり捨てた鬼畜としての素養が問われている時代なので、
いつまでも今の状態が続けば、じきに庶民の民度までもが完全に
鬼畜も同然のものへと落ちぶれることになる。というか、もうほとんどそうなっている。

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023 2012/01/03(火) 15:39:59 ID:7fa3lZLZiA
>>22
なるほど、一理あるな。

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024 2012/01/06(金) 11:55:03 ID:k4UsstJwCc:au
子路か。
「スラムのような所に住んでいたが不満の一つこぼすわけでなく、生き生きと暮らしていた、
若くして亡くなったとき孔子はその死をいたく嘆いた」

お里がバレるかもしれんが、高校の授業で論語があった。
学校の授業だったから、日常生活に生かすとかでなく古文とかと横並びだったように覚えてるが、
「ほんとうに強い人」を見せられたようで、子路の一節が10代の心に焼き付いた。

もう40もとうに過ぎたが、久しぶりに論語を思い出し、子路を思い出した。
今なら子路がどんな奴だったのか、なんとなしにわかる気がする。
もうすっかり忘れてたけど、子路は俺の指標だったわ。

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025 2012/01/06(金) 13:52:04 ID:QHBwwh0FXA
ただ頭がいいだけの臆病者なんかよりは、そんなに頭が良くなくても、
旺盛な勇猛さの備わっている人間のほうが儒説を理解できるという典型が、子路。
ほとんど文盲の状態から、少しずつ儒者を受け入れていった漢の高祖などもそう。

今の高偏差値大学の学生や教授などは、みんな頭はいいが、勇気は全くない。
プラトンが「ラケス」で、勇気の存在価値を根底まで貶めるような見解を記しているが、
そのプラトンを学祖とする洋学ばかりを必死に学んできたものだから、子羊のような臆病さが
心の芯まで染み付いてしまっていて、勇気ある人間をただそれだけの理由で蔑もうとしたりもする。

孔子も決して「勇気が全て」などとは言っておらず、「勇を好みて学を好まざればその弊や乱(陽貨第十七・八)」
ともいっている一方で、「知、仁、勇の三者は天下の達徳なり(中庸・二十章)」ともいっている。洞窟の奥底
からの出歯亀こそは至徳であるとするプラトンなどと違い、身を挺しての実践こそを大徳と見なす孔子のような
儒者にとって、思いきった仁徳の実践のために必要となる勇気もまた、君子に必須なものと見なされたわけだ。

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026 2012/01/06(金) 16:13:42 ID:k4UsstJwCc:au
論語からは離れちゃうけど、良寛和尚が巷に出没している泥棒の犯人と間違われて、あわや私刑をうけそうになったとき弁解の一つもしなかった、という逸話があって、

子路がスラムのような所に住んでも生き生きしていた、というのと、自分的には合致してる。あくまで自分的。個々で印象は変わるんだと思う。

要は高校生の自分には「スラムに住むのなんて絶対に嫌」なわけだし、かたや冤罪を受けるなんてまっぴら御免となるんだけど、
双方に合致を感じたのは「流れに任せる」「己(この場合、過剰なエゴ)に振り回されない」あたりなのでないかと思う。

今あることを受け入れて、後悔だ不満だと言わない、残さない、

そのあたりを、当時「強い人」と感じたんだろうな、と。

正直、若い頃の自分は大嫌いだったけど、こうやって振り返らさせてもらうと、意外と目の付けどころは良かったんだなと、気付かせてもらい救われた気がした。
ありがとうございます。

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027 2012/01/06(金) 19:13:16 ID:QHBwwh0FXA
俺の知り合いに、良寛好きの論語嫌い(自力仏教好きの道徳嫌い)の人間がいるが、
論語の登場人物である子路と、良寛の間に共通点を見出すとは、なかなか興味深い見解だな。

二人に共通するのは、旺盛な身分意識の高さじゃなかろうか。

衛国で官人として殺害されたときに、子路は君子としての身分の象徴である「冠」を脱がないことに
こだわり続けていたという。これと同じような逸話が、漢の高祖劉邦にもあって、まだ冠なんか
かぶらなくても構わないような小役人の頃から、自ら竹の子の皮で冠のモデルを作って、職人に
その通りに作らせたり、始皇帝の行列を見て「自分もあんな風になりたいなあ」と言ったともいう。
(項羽は「あいつの位を奪ってやる」と言ったという。)前者は「君子階級となったからには冠を被らなければ」
という身分意識の表れであり、後者もまた「ただの卑人ができるのは皇帝をうらやましがることぐらい」
という身分意識の表れであり、いずれもが自らの身の程に即した分のわきまえのうまさの証拠となっている。

罪人と間違えられて申し開きしなかった良寛のあり方も、出家者としての身分意識の高さの表れでこそある。
子路や劉邦が、官人や卑人としての身分意識の高さを披露したのに対し、良寛は出家者としての身分意識の高さを示した。
どんな立場であるのであれ、身の程をわきまえる人間というのはつつがなく、その道に即して大成するもの。

良寛好きで論語嫌いの件の知り合いたるや、自力仏教好きでも自らは出家せず、内縁の妻のヒモとして
道楽三昧の遊び人でいるもんだから、妻の両親からの結婚の承諾も得られずにいる。己の身の程をわきまえない
人間ってのは、何をやっても中途半端止まりで、身の程知らずな物言いが人からの怒りを買うこともしばしば。

自らの身の程をわきまえるためにこそ、自らを最も厳しい批判の目で客観視しておく勇気が必要になる。その勇気がない
人間こそは、身の程もわきまえないままに他人への誹謗ばかりを口走ったりするもんだ。それは決して自らの大成にも
結び付かないことだから、「己に有してしかるのちにこれを人に求む(大学・九章)」ということが大事だといえる。

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028 2012/01/06(金) 19:45:58 ID:k4UsstJwCc:au
いやはや面目ない。
「子路」ではなかったのか?それとも俺の記憶が歪んでいたのか(この可能性が高い)。

なにせ手元に論語の資料もなく、思い付くままに書き込んでいた。

ひょっとすると、いろんな記憶をごちゃ混ぜにしていたかもしれない。

レスで「子路」とした人物は若くして亡くなり、生涯スラム暮らしだったような覚えがある。


その人の境涯を思って、乞食のなりをしていて殺されかけた良寛の逸話と重ね合わせた次第。

ここへきて「学生時代はやっぱりまともに授業を聞いていなかった」ことまで露呈してしまった。

混乱させてしまったと思う。申し訳ないm( _ _ )m

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029 2012/01/06(金) 20:35:11 ID:QHBwwh0FXA
子路が生来遊侠の徒で、政争に巻き込まれて死んだことを孔子が悲しんだのも事実だが。

清貧で知られる孔子の弟子には、顔淵や原憲がいる。このうちで、夭折して孔子を
悲しませたのは顔淵だから、おそらく顔淵のことか。(原憲は孔子の死後まで生きている)

顔淵は「邦に道なくして穀すは恥なり(憲問題十一・一)」という孔子の教えを、原憲と共に
頑なに実践し通した弟子で、伯夷・叔斉のような潔癖主義の点では、孔子以上だったといえる。

この逆が子路や子貢で、乱国にも旺盛に仕官し、投機などで私益を稼ぐことまでもがあった。

孟子は伯夷・叔斉の潔癖主義も行き過ぎで、柳下恵のような猛烈主義も行き過ぎだと言って
いるから、顔淵や原憲も潔癖すぎ、子路や子貢も猛烈すぎということになり、出処進退
自由自在な孔子のあり方こそが、もっとも道に適っていると見なしていたのだと思われる。

今は子路や子貢のような猛烈主義ばかりが持て囃されて、顔淵のような潔癖主義は極端に
貶められている時代。隠遁の徒が世間から卑しめられるのはいつの時代でもある程度あることだが、
隠遁がほとんど犯罪も同然のものとして見なされている現代は、確かに異常な時代だといえる。

道家のように隠遁を開き直るのではなく、世間の汚濁に耐えられないあまり仕方なく隠遁するまでである、
儒家の均衡の取れた隠退志向は、水戸光圀などにも感銘を与えて、若い頃の放蕩を立ち直らせたともいう。

ある程度心の奇麗な人間でないと、隠退志向の高潔さは理解できない。
「そんなのただの負け組じゃないか」と貶めて、ただ猛烈一辺倒である自己を偉ぶる人間の何と多いこと。
そしてそういった人間こそは、伯夷や顔淵どころか、孔子のような大聖人からまで活躍の場を奪って、
世を最悪の争乱へと陥らせる。まさに、隠退の美徳のわきまえの喪失こそは、乱世の元凶ともなるのだといえる。

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030 2012/01/06(金) 21:48:34 ID:k4UsstJwCc:au
ありがとうございます。顔淵ですか。名前はもちろん覚えています。

いつの頃からか、若さゆえ屈折しはじめ、成人になって生き方を改めようと最初の指針になってくれたのが論語でした。

私にとっては御覧の通り、人物より、置かれた境遇や状況への対応に心うたれた、という感じだったように思います。

望まぬ環境に歯を食いしばり耐えるより、その環境の中で人生を謳歌する、

「年齢とともに近づいてはいるのかな?」
と感じておる次第です。

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031 2012/01/11(水) 00:14:54 ID:X1KMbAcVew
徳について学んだ

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032 2012/01/11(水) 01:47:47 ID:qDgauNUTCE
論より証拠

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033 2012/01/18(水) 00:59:25 ID:bmx8IO8JPQ:au
そういえば、良寛が冤罪をそのままにしていた理由の背景には
「起こった結果は受け入れざるをえない(そりゃ何だってそうなんですが)」
というのが含まれていますが、論語でこれにあたる言葉をご存知でしたらぜひ教えてください。

高校で論語に出会って、腕を掴まれて大きく振り回されたように思います。
ぽ〜ん、と飛ばされたような気がします。

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034 2012/01/18(水) 14:22:34 ID:46RSCJIZis
「成りし事は説かず、遂げし事は諌めず、既に往きしは咎めず」
(八佾第三・二一より)

魯の哀公が、神社の神体に樹木が用いられる理由を問うたとき、
弟子の宰我が「神木で絞首刑を行って、人々を戦慄させるためです」
と、偽りの理由を答えたことに対する孔子の反応。

三度も繰り返して言ったのは、暗に宰我を責める意図があったからだろう。
このあたり、出家者の良寛などよりは、ずいぶんと情緒的な部分だといえる。

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035 2012/01/19(木) 00:28:18 ID:VvJicxa.as:au
おぉ、やはりあるんですね。ありがとうございます。

良寛を持ち出しましたが、私はエピソードの断片を聞いたときに「自分にはとうてい無理」と感じた次第です。同時に、
「冤罪を受け入れるっても、もし私刑になったらやった方は後々どうすんのよ?」
みたいにも思ったりしました。

「三度繰り返す」はいいですね。「今、気付けなくとも後に」「伝え聞いた者に」

そんな局面で自分ならどうだろう、とした時に、孔子のような対応ができれば喜ばしいのですが…

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036 2012/01/19(木) 01:18:57 ID:61S5XhqxOo
>>34は「すでに過ぎ去ったことを、今さら咎めても仕方がない」という意味を持つ
論語中の言葉であるだけで、別に冤罪を受け入れるような意味の言葉ではない。

論語ではないが、孔子の詩選集である「詩経」の瞻卬という詩に、
冤罪が方々で横行している乱世の惨状を嘆く句が見られたりもする。

冤罪自体は、どこまでも現在進行形の犯罪現象であり、真の加害者が罪に服して、
冤罪被害者の名誉が回復されるまで「すでに過ぎたこと」になったりすることはない。

冤罪災禍がいかに甚大であったとしても、真の加害者の服罪と、冤罪被害者の名誉回復とが
尽くされて、冤罪という犯罪現象が過ぎ去った後には、もはや過ぎ去った過ちに対して、
いつまでもくすぶりを持ち越していてはいけないという教訓に、>>34の言葉もなっている。

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037 2012/01/20(金) 10:12:54 ID:Ekxsbp4Hmk
孔子の場合だけ「曰く」を「のたまわく」と読むのは何故?

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038 2012/01/20(金) 12:36:36 ID:4n7FPAGetg:au
「昔の道徳は子曰くがどうたらこうたら」言ってるような老人は、
結局、「子曰く」しか覚えていない。

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039 2012/01/20(金) 20:04:56 ID:wiT448sbm6
大道廃れて仁義あり
論語だけ読んでても頭でっかちになるだけでいかんと思う

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040 2012/01/20(金) 23:44:02 ID:AmVYNY8p1w
確かに、論語は儒学の入門書でしかないわけで、学識がそこ止まりでい過ぎれば、
それが「儒教」を絶対化する傾向にも結び付いてしまうため、好ましくない。

論語を含む四書五経の中で最難解なのが「易経(周易)」で、占い材料としてならともかく、
思想哲学の資料としての易の価値を計り知るのは、初学者には甚だ困難なことだと朱子も言っている。

論語に始まり、易に極まる儒学の長い永い道のりを、
論語をかじる程度で止め置くなんて、勿体ないにも程がある。

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041 2012/01/21(土) 13:59:18 ID:B5PLZdXw5s:au
趣味で学者然としているのは個々の自由,勝手だが、己の日常に息づいてこその『論語』であると思う。それでなくばカラオケとさして変わらぬもの。ただし、カラオケ趣味にはその自覚があるが。

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042 2012/01/21(土) 14:53:30 ID:GFUVAYnWqA
「邦に道有れば穀す。邦に道無きに穀するは、恥なり」
(憲問題十四・一)

確かに、権力犯罪の強盗殺人による報酬で、
虚栄を謳歌しながら論語を振りかざしたりするような
恥知らずな行いに及ぶことがあるとすれば、
そんなのはカラオケとも大して変わりはしないといえる。

全身全霊を呈しての実践が伴っていてこそ、
孔子や孟子の言葉もまた、心の奥底にまで響き渡るものだといえる。

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043 2012/02/05(日) 01:49:30 ID:9XM3ayHHIk
削除(by投稿者)

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044 2012/02/05(日) 12:20:29 ID:LfaOSs.ttY
論語は本当にすばらしい書だとおもう。
学んだことはたくさんあるけれど、
実生活で一番役に立ったのはとても簡明なこの言葉。

巧言令色、鮮なし仁。(巧言令色鮮矣仁。)学而篇・陽貨篇

孔子の時代でもこうならば、
現代は言うにも及ばない。

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045 2012/02/05(日) 13:23:39 ID:7GJ6iliq9s
巧言令色は、カッコ悪い。

巧言令色の徒ですらなければ、たとえフットボール岩尾似やバナナマン日村似であっても、
巧言令色豊かなレオナルド・ディカプリオやブラッド・ピットよもりかっこいい。

少なくとも、漢(おとこ)同士であれば、そう見なす。

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046 2012/02/05(日) 17:44:06 ID:KVvOS.PQwo:au
ヒス爺が涌くぞwwww

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047 2012/02/06(月) 11:31:14 ID:TyfDjE5Mrs:au
四十不惑は、優秀な大人についても駄目な大人についても共通して言える普遍法則。

四十も過ぎてからろくでもないようなやからは、もはや矯正も不能。

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048 2012/02/06(月) 23:57:43 ID:ap.PTEy32k:au
いやいや、君子豹変す、だよ。
己の歪みを自ら暴き、修正が必要とあらば翌日には全く別な視点に立つことは、年齢に関係なく可能であるし
そうあって欲しいと望む。
そうできなければ、君子と呼ぶわけにはゆかない。

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049 2012/02/07(火) 09:03:48 ID:rn2Cu4rJmM:au
優秀な大人は君子だから、四十までに積み上げた優秀さで以って不惑となり、
優秀さが不惑となるから別に豹変する必要もない。

駄目な大人は君子ではないから、四十までに溜め込んだダメダメさで
以て不惑となり、豹変したくても二度とできない。

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050 2012/02/10(金) 20:10:18 ID:RDM8kvGVQk:au
了見狭すぎてレス無しwww

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051 2012/02/12(日) 13:45:58 ID:.E2Mi3BSZw:au
狭い狭い了見の、勧善懲悪によってでしか生き延びられなくなっているのは、何処の何方やら?

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052 2012/02/12(日) 23:40:00 ID:Znaazm06sg:au
>>51
口惜しいかなそれは俺だな。自覚がある。
参った!

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053 2012/02/13(月) 00:20:37 ID:wwZKPhK7XI:au
勧善懲悪はけっこう大きなテーマだ。
これが機になってくれれば良いのだが。

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054 2012/02/13(月) 04:22:12 ID:U6QcR0iLFY
>>45
それだな。
論語の世界は男(漢)の世界。
生理生物学上、先天的に現実的で計算高いおんなには、大体部分ちょっと理解し難い世界だと思う。
逆説的に言えば、男を形而下の現実の厳しさからから救い出してくれる書。
しかし、救い出された漢は、現実で尊崇を集める的になる。って...
う〜ん、やっぱり論語は凄みがあるな。

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055 2012/02/13(月) 11:13:40 ID:KMDiUgqW3I:au
痴話を聞かない男、論語が読めない女

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056 2012/02/13(月) 15:35:24 ID:im0nxWVOPA
著者である孟軻や荀況自身が、仁徳を体系的・分析的に述べているのが
「孟子」や「荀子」であるのに対し、「論語」は五経の編纂者である
孔子の断片的な言行を寄せ集めただけのものだから、論語だけで
仁徳の本質を計り知るのは、かえって難しいことではないかと思う。

特に、西洋哲学の晦渋さに慣れているような人間にとっては、
体系性の豊かな孟子や荀子の言葉のほうが取っ付きやすいんじゃないか。

もちろん、儒者としても、孔子のほうが孟子や荀子よりも格上であって、
最高級の聖人君子のあり方を手っ取り早く知る上では、論語が打って付けなわけだけども。

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057 2012/02/14(火) 01:48:33 ID:nPNTQRq1KQ:au
『勧善懲悪癖』に対応しようとはたらくのは『勧善懲悪癖』を、相変わらず「悪」としてしまうことになる。

なら、思い浮かんだ『勧善懲悪』の思いをスルーする心がけすべし、か。

なら、そのぶん話せなくなるな。
巧言令色を避けることにもつながるのか。論語は奥が深いな。

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058 2012/02/16(木) 00:15:52 ID:ONezPsi1CQ
論語で用いられている「君子」という言葉は、「立派な人間」という意味の
形容詞性名詞と、「公職者」という社会的身分とのダブルミーニングとなっている。
また、「小人」という言葉も、「つまらない人間」という意味の形容詞性名詞と、
「民間人」という社会的身分とのダブルミーニングになっている。

「立派な人間は世のため人のための公益扶助を志すから、公職者となる。だから公職者は君子であるべきである。
一方、つまらない人間は私利私欲の貪りに終始するから、民間人でいる。だから民間人は小人であってもよい」
という社会機能の健全化の意図をも込めて、あえて「立派な人間」と「公職者」とを「君子」という言葉で括り、
「つまらない人間」と「民間人」とを「小人」という言葉で括っている。

ここが、民主主義社会にドップリ浸かっている現代人には、全く以って「意味が分からない部分」とされる。
民主主義の前提には、「公職者こそは私利私欲を貪る存在である一方、民間人こそは世の中に対する公正な判断を
行える人間である」という認識があり、これは、論語における公職者や民間人に対する認識とは全く相反している。だから、
民主主義社会の人間には、立派な人間と公職者、つまらない人間と民間人を同一扱いする、論語の語法が全く理解できない。

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059 2012/02/16(木) 00:16:12 ID:ONezPsi1CQ
民主主義の大前提ともなっている、公職者に対する卑しみは、古くは新約聖書における、徴税人を卑しい身分と決め付ける
イエスの発言などにまでその起源がさかのぼれるが、イエスが公職者である徴税人を「卑しい身分」と決め付けたのは、
当時のイスラエルやローマの公職者が、どいつもこいつも腐敗まみれであることを皮肉ったからなだけであって、
(もしくはイエスがあまりにも世間知らず過ぎて、公職者を本気で卑しい身分だなどと思い込んでいたかのいずれか)
徴税人を含む公職者こそは、民間人以上にも真摯に公益を図る立派な人間でなければならないことは、今も昔も変わらない。

にもかかわらず、「民間人こそは貴く、公職者こそは卑しい」などという偏見ないし皮肉を大前提とした
イデオロギーである「民主主義」などを国是に掲げたりするものだから、そのような社会の公職者である政治家や官僚もまた、
自分たちも民間人のように私利私欲を貪っていくことがデフォルトであるかのように見なして、選挙での得票のために、
表向きだけは巧言令色での人気取りを尽くしておきながら、裏では腐敗まみれであることを当たり前としたりするようになる。

致命的な政治腐敗を防ぐためには、「立派な人間」と「公職者」を一致させ、「つまらない人間」と「民間人」を一致させる努力
からまずなされるべきなのであり、そのためには、それぞれの言葉を「君子」や「小人」といった言葉で統一化すべきですらある。
そういった、根本的な言葉遣いから正していくことで、初めて政治腐敗をデフォルトとするかのような事態もまた防がれるのだから、
「民主主義」などという、政治腐敗を大前提とした言葉遣いの中でのみ生ずる理念などを、あり難がっていてもいけないのである。

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060 2012/02/16(木) 23:11:19 ID:mvpt3bugIE:au
私にとって51氏は、ご本人の意志にかかわらず、君子だ。
「狭い」を二度、重ねていただいたのが、より明確に突き刺さり、この数日でもずいぶん改まってきたが、根本的な了見の狭さ自体はまだまだ大差無いんだろう。

きっかけをいただいて、あらためて「論語から何を学んだか?」とすれば『中庸』になるのか。
片寄らず、かといって押し殺さず。そのぶん、了見の「広さ」を得てくるようにも思う。

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061 2012/02/17(金) 18:34:48 ID:LA8gpqNqvM:au
俺の言うことが理解できる近場の人間って、
みんな何十年も修練を積んだ武道家だったり神道家だったりするんだが、
そんなに短期間で理解できるようになるもんかね?

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062 2012/02/18(土) 21:03:41 ID:xJmKVA1iTs:au
>>61
私は途上の人間なのであなたの想定している方々とはたぶん異なる、どちらかといえばマイナス条件な輩だと思う。

カーブを投げても、相手の立ち位置によって球すじはシュートにもフォークにも見える。
どのみち、一本負けを期した小僧の戯れ言になるか。

ただ言えるのは、投げた球種が違っても真ん中ストライクで見事に負かせたのは、そちらの力量が充実してこその話しなんだろう。


中庸狙いの小僧がふと思ったのは、ともすれば思い出したくない「恥」に分類されている過去、
触れることを避けてきた自分の黒歴史を自ら許してやることが中庸につながるのではないか、
定かな理由もなく、そう感じた。

こういうことを検証する気はないが「北風と太陽の理屈」になるような気がする。

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063 2022/04/16(土) 17:46:23 ID:vHVwWqpvBI
桃屋のごはんですよ

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スレッドタイトル:おまいら論語から何を学んだ?

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