格物致知 純正な学問の基本中の基本
▼ページ最下部
格物致知(かくぶつちち).
中国哲学の用語。『大学』に、学問(儒学)の規模を、
格物、致知、誠意、正心、修身、斉家(せいか)、治国、平天下の
8段階(朱熹のいう八条目)に整理して示した。その最初の2項目である。
(「日本大百科全書」より)
「物を格して知を致す」とも日本語では読み下される、朱子学上の最重要理念。
あまりにも抽象的すぎて理解しにくく、実際に儒者の間でも様々な解釈が試みられてきた。
朱子は「格物窮理(物を格して理を窮む)」と同じ意味だとも解説したが、
では格物致知とは「物理を極める」ということなのかといえば、それもまた不可解なこと。
科学上の物理学が未だ完成された試しなどはなく、物理科学を極めるということであるのなら、
格物窮理であるところの格物致知が、未だ達成された試しはないのだといえる。
相対性理論や量子力学はおろか、力学などの古典物理学ほどにも、科学的な探求を
試みた形跡の見られない東洋学において、格物致知とは、一体何だったのだろうか?
その疑問を解き明かしてみると、そこには、学問知識の本来のあり方までもが見えて来る。
結果として、純正な学問が本来あるべき姿を指し示している理念であることが
判明する、格物致知という理念について、なるべく事細かに論じていく。

中国哲学の用語。『大学』に、学問(儒学)の規模を、
格物、致知、誠意、正心、修身、斉家(せいか)、治国、平天下の
8段階(朱熹のいう八条目)に整理して示した。その最初の2項目である。
(「日本大百科全書」より)
「物を格して知を致す」とも日本語では読み下される、朱子学上の最重要理念。
あまりにも抽象的すぎて理解しにくく、実際に儒者の間でも様々な解釈が試みられてきた。
朱子は「格物窮理(物を格して理を窮む)」と同じ意味だとも解説したが、
では格物致知とは「物理を極める」ということなのかといえば、それもまた不可解なこと。
科学上の物理学が未だ完成された試しなどはなく、物理科学を極めるということであるのなら、
格物窮理であるところの格物致知が、未だ達成された試しはないのだといえる。
相対性理論や量子力学はおろか、力学などの古典物理学ほどにも、科学的な探求を
試みた形跡の見られない東洋学において、格物致知とは、一体何だったのだろうか?
その疑問を解き明かしてみると、そこには、学問知識の本来のあり方までもが見えて来る。
結果として、純正な学問が本来あるべき姿を指し示している理念であることが
判明する、格物致知という理念について、なるべく事細かに論じていく。

「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉う。
その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。
その心を正しくせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。
知を致すは物に格るに在り。物格ってのち知至る。知至ってのち意誠なり。意誠にしてのち心正し。
心正しくしてのち身修まる。身修まってのち家斉う。家斉いてのち国治まる。国治まってのち天下平らかなり」
(「大学」一章より)
これが「格物致知」の出典で、「格物致知」という四文字熟語自体は「大学」中には出て来ない。
上記の「知を致すは物に格るに在り」という部分から、朱子などが「格物致知」という語を
用い始めたわけで、正確には「格物致知」は古典儒学ではなく、朱子学上の研究対象であるといえる。
「格物致知」という読み替えを上記の原典に当てはめると、
格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下
という順序だてが成り立つことが分かる。つまり、「格物致知」とは、
「誠意正心」に至り、さらには「修身斉家治国平天下」に至るための手段であることが分かる。
「格物致知」自体が何であるのかは、儒者同士ですら意見が分かれる所であるため、ここでは一旦おく。ただ、
上記の分析から明らかとなるのは、「格物致知」が自明に「誠意正心修身斉家治国平天下」を実現するものであるということ。
知識や学問の探求が「格物致知」であるということは、
当該の学知の探求が実際に「誠意正心修身斉家治国平天下」を実現するものであるということ。
その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。
その心を正しくせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。
知を致すは物に格るに在り。物格ってのち知至る。知至ってのち意誠なり。意誠にしてのち心正し。
心正しくしてのち身修まる。身修まってのち家斉う。家斉いてのち国治まる。国治まってのち天下平らかなり」
(「大学」一章より)
これが「格物致知」の出典で、「格物致知」という四文字熟語自体は「大学」中には出て来ない。
上記の「知を致すは物に格るに在り」という部分から、朱子などが「格物致知」という語を
用い始めたわけで、正確には「格物致知」は古典儒学ではなく、朱子学上の研究対象であるといえる。
「格物致知」という読み替えを上記の原典に当てはめると、
格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下
という順序だてが成り立つことが分かる。つまり、「格物致知」とは、
「誠意正心」に至り、さらには「修身斉家治国平天下」に至るための手段であることが分かる。
「格物致知」自体が何であるのかは、儒者同士ですら意見が分かれる所であるため、ここでは一旦おく。ただ、
上記の分析から明らかとなるのは、「格物致知」が自明に「誠意正心修身斉家治国平天下」を実現するものであるということ。
知識や学問の探求が「格物致知」であるということは、
当該の学知の探求が実際に「誠意正心修身斉家治国平天下」を実現するものであるということ。
現代を見てみるなら、学知の探求が「修身斉家治国平天下」を実現するどころか、
探求者自身の「誠意正心」に結び付いていることすら、ほとんどない。
旧帝大卒の御用学者の不誠実さも、例の原発事故に対する対応などから明らかとなったし、
作家を兼任する文学者などの中にも、あからさまに不誠実な発言をウリにする者がいたりする。
これは、上記のような学者にとっての学知の探求が、「格物致知」には当たらないからで、
ちょっとした思い付きをただ述べ立ててみたり、人の意見にただただ揚げ足取りの反駁を
加えてばかりだったりといったことを「学知の探求」の内に入れてしまっているものだから、
今の学者の言行というのは、全く以って誠意正心や修身斉家治国平天下に結び付くことがない。
たとえば、「大学」が書かれた中国の春秋戦国時代にも(完全に定型化されたのは前漢の代)、
堅白同異説だの白馬非馬説だのといった言葉遊びの概念論が一部の学者(名家)によって持て囃され、
誠意正心や治国平天下に結び付くわけでもないような概念論によって権力者に取り入るような学者も
また存在していた。しかし、そのような学知の探求は「格物致知」ではないために、誠意にも
正心にも修身斉家治国平天下にも結び付かない。「玩物害知寓意邪心滅心蔑家亡国乱天下」の学と
しかならないために「異端の学」として断罪され、学知の探求が格物致知である学問=儒学こそを、
あらゆる学問の中でも最も純正な学問として認定することが、前漢の武帝の代以降に実施された。
時代が下って現代ともなると、逆に儒学が「時代遅れの学問」とされ、西洋の学問(洋学)こそは
学問の本流であるかのごとく、東西を問わず、世界中の人間が諾うまでにいたってしまっている。
しかし、洋学は始めから「格物致知」を学知の根本には据えておらず、かつての中国の名家のように、
ただただ言葉遊びの概念論を弄んだり、それに対して強烈な反駁を加えたりするばかりが基本とされる。
そこで論じられているものが何であれ、洋学が本分とするところのものは全く「格物致知」ではないから、
洋学者が学知の探求によって誠意や正心を得ることもなければ、修身斉家治国平天下に貢献することもない。
探求者自身の「誠意正心」に結び付いていることすら、ほとんどない。
旧帝大卒の御用学者の不誠実さも、例の原発事故に対する対応などから明らかとなったし、
作家を兼任する文学者などの中にも、あからさまに不誠実な発言をウリにする者がいたりする。
これは、上記のような学者にとっての学知の探求が、「格物致知」には当たらないからで、
ちょっとした思い付きをただ述べ立ててみたり、人の意見にただただ揚げ足取りの反駁を
加えてばかりだったりといったことを「学知の探求」の内に入れてしまっているものだから、
今の学者の言行というのは、全く以って誠意正心や修身斉家治国平天下に結び付くことがない。
たとえば、「大学」が書かれた中国の春秋戦国時代にも(完全に定型化されたのは前漢の代)、
堅白同異説だの白馬非馬説だのといった言葉遊びの概念論が一部の学者(名家)によって持て囃され、
誠意正心や治国平天下に結び付くわけでもないような概念論によって権力者に取り入るような学者も
また存在していた。しかし、そのような学知の探求は「格物致知」ではないために、誠意にも
正心にも修身斉家治国平天下にも結び付かない。「玩物害知寓意邪心滅心蔑家亡国乱天下」の学と
しかならないために「異端の学」として断罪され、学知の探求が格物致知である学問=儒学こそを、
あらゆる学問の中でも最も純正な学問として認定することが、前漢の武帝の代以降に実施された。
時代が下って現代ともなると、逆に儒学が「時代遅れの学問」とされ、西洋の学問(洋学)こそは
学問の本流であるかのごとく、東西を問わず、世界中の人間が諾うまでにいたってしまっている。
しかし、洋学は始めから「格物致知」を学知の根本には据えておらず、かつての中国の名家のように、
ただただ言葉遊びの概念論を弄んだり、それに対して強烈な反駁を加えたりするばかりが基本とされる。
そこで論じられているものが何であれ、洋学が本分とするところのものは全く「格物致知」ではないから、
洋学者が学知の探求によって誠意や正心を得ることもなければ、修身斉家治国平天下に貢献することもない。
たとえば、荘子や列子のように家に引きこもって世の中との関係を断ち、
権力者から提供された禄を食むこともないままに、堅白同異や白馬非馬のような
夢想的な物言いに耽るのだったら、それでも構いやしない。しかし、権力者の庇護を受ける
権威ある学者ともなれば、それは「治国平天下」を最終目的としていなければ筋が通らず、
それに至るための誠意正心修身斉家を実現するための、格物致知の研鑽者でなければならない。
「私の知見は、格物致知によって磨き上げられたものです」と保証できてこそ、学者も
一端の権威ある学者であるべきなのであり、その保証ができないのなら、学者の看板などを
公けに掲げるべきではない。実際に、荘子や列子も学問の価値からして認めないような論及を多々
行っており、老子にいたっては「絶学無憂」という、ぐうの音も出ないような名言を残している。
「格物致知」それ自体が一体何ものであるのかということは、現時点では未だ明らかではないが、
少なくとも「格物致知」は、「誠意正心修身斉家治国平天下」に結び付く学知の探求姿勢のことであり、
世のため人のために学知を研鑽していくという、明らかな方向性を持っていることだけは確か。
自分が格物致知を本分とした学者であり、知見を披露する以上は必ず治国平天下をも実現するという
保証ができて初めて、人は純正な学者としても学知を公けに広く流布することが認められるのであり、
それは今の世の中では、最高権威の御用学者ですら満たせていない条件であったりする。
権力者から提供された禄を食むこともないままに、堅白同異や白馬非馬のような
夢想的な物言いに耽るのだったら、それでも構いやしない。しかし、権力者の庇護を受ける
権威ある学者ともなれば、それは「治国平天下」を最終目的としていなければ筋が通らず、
それに至るための誠意正心修身斉家を実現するための、格物致知の研鑽者でなければならない。
「私の知見は、格物致知によって磨き上げられたものです」と保証できてこそ、学者も
一端の権威ある学者であるべきなのであり、その保証ができないのなら、学者の看板などを
公けに掲げるべきではない。実際に、荘子や列子も学問の価値からして認めないような論及を多々
行っており、老子にいたっては「絶学無憂」という、ぐうの音も出ないような名言を残している。
「格物致知」それ自体が一体何ものであるのかということは、現時点では未だ明らかではないが、
少なくとも「格物致知」は、「誠意正心修身斉家治国平天下」に結び付く学知の探求姿勢のことであり、
世のため人のために学知を研鑽していくという、明らかな方向性を持っていることだけは確か。
自分が格物致知を本分とした学者であり、知見を披露する以上は必ず治国平天下をも実現するという
保証ができて初めて、人は純正な学者としても学知を公けに広く流布することが認められるのであり、
それは今の世の中では、最高権威の御用学者ですら満たせていない条件であったりする。

言行に疑念を抱いたり、大きな怒りを抱いたりしている人間は数多い。
確かにそれは仕方のないことであって、今の学者の発言なんてのは、治国平天下を
目標としていないのみならず、我田引水のために天下を乱すためのものであったりする。
しかもそのような邪見を述べている学者が、いかにも権威あるものとして崇めたてられていたりするわけで、
これでは学者の論及の価値など真っ向から否定されて、学問全般に対する不信が生じてしまったとしても仕方がない。
しかし、それは、今の学者に限っての体たらくであって、格物致知を本分とする儒学が正学とされていた頃の学者たるや、
自らの知見の著述に命をかけるほどもの覚悟でいたわけで、それは、自らの知見が治国平天下に結び付かないのなら
落命すらも辞さないというほどに、格物致知を本分とした学知の探求にのみ取り組んでいたからだ。
だから、格物致知の研鑽者であることを理由に大学者と認められた学者=儒者の知見の述べ立てに対しては、
もはやいちいち疑念を呈するのは無礼になる。同じ儒者として、どうしても譲れない部分があったりするのならまだしも、
ただのド素人として、儒者の物言いに文句をつけるぐらいだったら、始めから儒者の言葉などに耳を貸さないでいればいい。
格物致知から治国平天下に至る、磐石な公益扶助の実現のためにこそ、儒者は自らの学知を磨き上げる。
それは格物致知を本分としない洋学者などとは、全く志しの段が違っていて、発言するという段階ともなれば、
もはや命すらかけているわけだから、洋学者に対するようなうがった態度で、その言葉を聞いていてはならないのである。
儒者の物言いに、ど素人の分際でいちいち天邪鬼的な反論を加えていても
ならないのは、何も儒学に絶対的な権威があるからなわけでもない。
個々の儒者が、自らの論及によって実現しようとする所のものが、格物致知に根ざした
治国や平天下ですらあるため、その論及に反駁を加えるような人間もまた、
相手となった儒者と同等か、それ以上の格物致知を志していなければならない。
治国平天下のための格物致知を志しているわけでもないのに、ただ言葉尻の綾を
捉えて揚げ足を取ったりすることを、儒者の論及にまで試みたならば、それはすなわち、
治国や平天下を少しも推進することなく、多少なりとも損壊することに繋がるため、
そのような揚げ足取りに及ぶ人間自身が即座に、亡国や乱天下を企む暴徒であるということになる。
だから、儒者の物言いに文句を付けることには、それなりの責任が伴うのであって、
ただ有名大の教授だったり、有名大の出身者だったり、博士号や修士号の取得者だったり
するからその発言の価値が疑われないのとは、わけが違うのである。
ならないのは、何も儒学に絶対的な権威があるからなわけでもない。
個々の儒者が、自らの論及によって実現しようとする所のものが、格物致知に根ざした
治国や平天下ですらあるため、その論及に反駁を加えるような人間もまた、
相手となった儒者と同等か、それ以上の格物致知を志していなければならない。
治国平天下のための格物致知を志しているわけでもないのに、ただ言葉尻の綾を
捉えて揚げ足を取ったりすることを、儒者の論及にまで試みたならば、それはすなわち、
治国や平天下を少しも推進することなく、多少なりとも損壊することに繋がるため、
そのような揚げ足取りに及ぶ人間自身が即座に、亡国や乱天下を企む暴徒であるということになる。
だから、儒者の物言いに文句を付けることには、それなりの責任が伴うのであって、
ただ有名大の教授だったり、有名大の出身者だったり、博士号や修士号の取得者だったり
するからその発言の価値が疑われないのとは、わけが違うのである。
「格物致知」は、それ自体が一つのオブジェクトであると捉えればいい。
その内実は本人のみぞ知るものであり、他者から見ればそれはブラックボックスに当たる。
しかし、格物致知の研鑽者は結果的に、旺盛な誠意や正心を湛えることになり、
自らの修身や斉家によって、必ず治国や平天下といった結果を出す。
そうである学知の探求が、ありのままに格物致知なのである。
大学教授や博士号取得者などの、いま正規の学者とされている人間の学知も、
社会的に認められた権威の上下如何によっては、その学知がある程度、検証もなく無謬の
ものとして扱われたりもする。でないと、膨大な研究によって成り立っているその学知を
外的に利用することもできなくなるからで、学知のオブジェクトとしての無謬扱いは、
格物致知を本分とはしていない洋学においてですら、それなりに容認されていることだ。
(むしろ知見のブラックボックス化を悪用した詐欺も、洋学界にこそ溢れ返っている)
儒者は洋学者のように、人から与えられた権威によって、自らの知見のブラックボックス化を
企図するのではなく、自らの学知の探求が、最終的には治国や平天下にも結び付く格物致知を
本分としているものであるために、その結果得られた知見に対して反駁を加えるのならば、
その人間にも自分並みか、それ以上の格物致知の心がけが備わっていなければならないことを理由に、
ずぶの素人までが生意気にも天邪鬼な反論を加えてきたりすることまでは、容認しないのである。
洋学者が、自らの論弁に対して無謬扱いを要求する根拠は「人爵(人に与えられた権威)」である一方、
儒者が、自らの論弁に対して無謬扱いを要求する根拠は「天爵(天理に即座に適っているが故の権威)」である。
世のため人のためという、仁徳に根ざした学知の探求である所の格物致知を自らの本分としているから、格物致知
を本分としているわけでもない洋学以上にも、儒説を論じたり反駁したりすることには、大きな責任が伴うのである。
その内実は本人のみぞ知るものであり、他者から見ればそれはブラックボックスに当たる。
しかし、格物致知の研鑽者は結果的に、旺盛な誠意や正心を湛えることになり、
自らの修身や斉家によって、必ず治国や平天下といった結果を出す。
そうである学知の探求が、ありのままに格物致知なのである。
大学教授や博士号取得者などの、いま正規の学者とされている人間の学知も、
社会的に認められた権威の上下如何によっては、その学知がある程度、検証もなく無謬の
ものとして扱われたりもする。でないと、膨大な研究によって成り立っているその学知を
外的に利用することもできなくなるからで、学知のオブジェクトとしての無謬扱いは、
格物致知を本分とはしていない洋学においてですら、それなりに容認されていることだ。
(むしろ知見のブラックボックス化を悪用した詐欺も、洋学界にこそ溢れ返っている)
儒者は洋学者のように、人から与えられた権威によって、自らの知見のブラックボックス化を
企図するのではなく、自らの学知の探求が、最終的には治国や平天下にも結び付く格物致知を
本分としているものであるために、その結果得られた知見に対して反駁を加えるのならば、
その人間にも自分並みか、それ以上の格物致知の心がけが備わっていなければならないことを理由に、
ずぶの素人までが生意気にも天邪鬼な反論を加えてきたりすることまでは、容認しないのである。
洋学者が、自らの論弁に対して無謬扱いを要求する根拠は「人爵(人に与えられた権威)」である一方、
儒者が、自らの論弁に対して無謬扱いを要求する根拠は「天爵(天理に即座に適っているが故の権威)」である。
世のため人のためという、仁徳に根ざした学知の探求である所の格物致知を自らの本分としているから、格物致知
を本分としているわけでもない洋学以上にも、儒説を論じたり反駁したりすることには、大きな責任が伴うのである。
○格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下
×玩物→害知→寓意→邪心→滅心→蔑家→亡国→乱天下
他にも色々な言い方はできるだろうが、「格物致知(物を格して知を致す)」の反語としては、
「玩物害知(物を玩んで知を害なう)」が的確かと思う。「書経」にも「玩物喪志」とあり、
太古の昔から事物を無闇に玩んで、その結果、常識的な知見すら損なうような人間はいたようである。
正直、洋学(西洋の学)が本分とする所のものこそは、まさに玩物害知であり、
イギリス哲学の懐疑主義のように、害知を真っ向から肯定しきっている
ような学派すら存在する。(同時にイギリスは世界一の博物大国でもある)
格物とは、玩物の逆であり、事物の格式をよく計り知ること。
致知とは、害知の逆であり、順当な格物によってより上質な知見を得ること。
格物致知を本分とする以上は、物知りであることに人並み以上の格式のわきまえが備わっている必要があり、
自らの知見が人並み以上にも上質であるが故に、自然と誠意や正心を湛え、その実践は修身や斉家と
なって現れ、結果として治国や平天下といった公益扶助の大業にすら結び付くものでなければならない。
いくら博物知識が旺盛であったところで、玩物喪志と化して、人並みほどの知見の上質さすら
備えられていないのならば、学知が上記のような条件を満たすことも決してないのである。
×玩物→害知→寓意→邪心→滅心→蔑家→亡国→乱天下
他にも色々な言い方はできるだろうが、「格物致知(物を格して知を致す)」の反語としては、
「玩物害知(物を玩んで知を害なう)」が的確かと思う。「書経」にも「玩物喪志」とあり、
太古の昔から事物を無闇に玩んで、その結果、常識的な知見すら損なうような人間はいたようである。
正直、洋学(西洋の学)が本分とする所のものこそは、まさに玩物害知であり、
イギリス哲学の懐疑主義のように、害知を真っ向から肯定しきっている
ような学派すら存在する。(同時にイギリスは世界一の博物大国でもある)
格物とは、玩物の逆であり、事物の格式をよく計り知ること。
致知とは、害知の逆であり、順当な格物によってより上質な知見を得ること。
格物致知を本分とする以上は、物知りであることに人並み以上の格式のわきまえが備わっている必要があり、
自らの知見が人並み以上にも上質であるが故に、自然と誠意や正心を湛え、その実践は修身や斉家と
なって現れ、結果として治国や平天下といった公益扶助の大業にすら結び付くものでなければならない。
いくら博物知識が旺盛であったところで、玩物喪志と化して、人並みほどの知見の上質さすら
備えられていないのならば、学知が上記のような条件を満たすことも決してないのである。
良スレ( ´∀`)ノ
[YouTubeで再生]
橋下も元はといえば実務を担当する法律家であり、
治国平天下に至る体系的な計画立てを、どこまで綿密に組み立てているのかはまだ知れない。
しかし、学者でありながら格物致知を全く仕事ともせず、無責任な立場から
文句ばかりを言ってそれで教授としての報酬を得ている山口に対して
橋下が糾弾を加えれば、山口も「これが俺の仕事なんだよ」と開き直る。
そういう学者は、もういるまい。
アマチュアで細々と研究していくのならまだしも、
税金すら投入される国公立の大学で教授としてやっていくぐらいなら、
自らもまた治国平天下を目的とした格物致知を本分としなければ、筋が通らない。
前漢の頃の中国で儒学が国学に制定されたことを、
あたかも「中国が儒教という宗教に征服された」かのように述べる歴史学者もいるが、
そもそも、治国平天下を目的とした格物致知の学問ってのは、何でも儒学であり得るのであって、
そのような一般的な意味での儒学が、純正な学問として国などから公認されないほうがおかしなこと。
維新後に明治天皇も、儒学を学校教育の中心に据えることを希望されたのに、
初代文部大臣の森有礼による洋学のごり押しによってそれも反故になり、辛うじて尋常小学校などで
多少の徳育教育が敷かれるようになったが、それすら戦後にはなくなって、表向きの学界や
教育界から儒学は完全に姿を消した。(漢文の読み方講座などは儒学の内に入らない)
「治国平天下を目的とした格物致知の学問」としての儒学が、洋学が研究対象としているような
事物を格物致知の対象とすることもできなくはないわけで、儒学の推進イコール科学や医学の衰退
なんてことになるわけもなく、かえって世のため人のための科学や医学の用い方までもが発展していくことになる。
ただ、学問に格物致知という一定の方向性を備わらせることが、それで儒学になるわけで、
それもなく、不審な学問に耽ったりすることのほうがおかしいのである。

治国平天下に至る体系的な計画立てを、どこまで綿密に組み立てているのかはまだ知れない。
しかし、学者でありながら格物致知を全く仕事ともせず、無責任な立場から
文句ばかりを言ってそれで教授としての報酬を得ている山口に対して
橋下が糾弾を加えれば、山口も「これが俺の仕事なんだよ」と開き直る。
そういう学者は、もういるまい。
アマチュアで細々と研究していくのならまだしも、
税金すら投入される国公立の大学で教授としてやっていくぐらいなら、
自らもまた治国平天下を目的とした格物致知を本分としなければ、筋が通らない。
前漢の頃の中国で儒学が国学に制定されたことを、
あたかも「中国が儒教という宗教に征服された」かのように述べる歴史学者もいるが、
そもそも、治国平天下を目的とした格物致知の学問ってのは、何でも儒学であり得るのであって、
そのような一般的な意味での儒学が、純正な学問として国などから公認されないほうがおかしなこと。
維新後に明治天皇も、儒学を学校教育の中心に据えることを希望されたのに、
初代文部大臣の森有礼による洋学のごり押しによってそれも反故になり、辛うじて尋常小学校などで
多少の徳育教育が敷かれるようになったが、それすら戦後にはなくなって、表向きの学界や
教育界から儒学は完全に姿を消した。(漢文の読み方講座などは儒学の内に入らない)
「治国平天下を目的とした格物致知の学問」としての儒学が、洋学が研究対象としているような
事物を格物致知の対象とすることもできなくはないわけで、儒学の推進イコール科学や医学の衰退
なんてことになるわけもなく、かえって世のため人のための科学や医学の用い方までもが発展していくことになる。
ただ、学問に格物致知という一定の方向性を備わらせることが、それで儒学になるわけで、
それもなく、不審な学問に耽ったりすることのほうがおかしいのである。
道之不明 異端害之也
洋学が異端であるとは思わんがね
洋学が異端であるとは思わんがね

古典儒学や朱子学が研究対象とする所のものは、専ら道徳や政治であり続けた。
易学を通じて多少物質的な問題を取り沙汰することもあったが、どこまでも
最大の研究対象となったのは人間自身であり、人間が取り扱うもの
であるに過ぎない、モノやカネの研究はどこまでも端に置かれた。
(為政者としてカネやモノを取り扱うための法学すら、道徳学よりも劣後された)
逆に、洋学はモノやカネの研究こそを一番の念頭に置き、
道徳や政治も所詮は、モノやカネをいかに取り扱うかの手段とばかり見なされ、
自らの誠意や正心、修身や斉家によって生成的に徳治を実現することなど考え
られもしなかった。結果、格物致知が本分とされることももちろんなかった。
古典儒学や朱子学が、洋学ほどにもモノやカネばかりを研究対象にした
ことは確かにないから、洋学こそを学問だと思っている人間が、
「儒学こそは純正な学問だ」などと言われたとしても、ピンと来ないだろう。
洋学は、「産業の豆知識」としては純正かもしれない。
その点では確かに儒学以上にも、正確で精密な知識を蓄えているに違いない。
しかし、産業の豆知識すなわち学問ではなく、所詮は産業知識でしか
ないから、学問としては異端であるといえ、一端の学問というよりも、
産業技術としての存在性がわきまえられてしかるべきだといえる。
(洋学の発展の影には各種ギルド〈商工組合〉の暗躍もある)
工場で職人が効率よく高品質な製品を作製するための知識、結局のところ、
洋学ってのは学問よりもむしろそちらに近いのであり、その豆知識としての
有用さが重宝される程度のことは認められたとしても、学問としての権威
までもが認められたりするのは本来、分不相応なことなのだといえる。
桃屋のごはんですよ
▲ページ最上部
ログサイズ:23 KB 有効レス数:13 削除レス数:0
不適切な書き込みやモラルに反する投稿を見つけた時は、書き込み右の マークをクリックしてサイト運営者までご連絡をお願いします。確認しだい削除いたします。
知識/学問掲示板に戻る 全部 次100 最新50
スレッドタイトル:格物致知