伯夷・叔斉 誰も受け入れられない、儒家の聖人


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001 2012/11/17(土) 11:52:20 ID:aD43CuCieM
伯夷・叔斉——殷代末期から周代初期にかけての聖人。狐竹国の王子(長男と三男)。
王位を次男に譲って一旦は隠遁。当時、周文王の評判が名高かったため、文王への
臣従を志して周に赴くも、時すでに遅く、文王は亡くなって息子の武王が跡を継ぎ、
放辟邪侈と苛政を極めていた殷の紂王の討伐に臨む所だった。文王の温厚な人柄を
慕っていた伯夷叔斉兄弟は、武王に必死で討伐中止の諫言を行うも聞き入れられず、
放伐によって武王は紂王の帝位を簒奪した。幻滅した伯夷叔斉兄弟は仕官を絶って
首陽山に引きこもり、薇などの山菜を採って食い繋ぐ生活を続けた後に餓死した。
(「史記」伯夷列伝より)

 
今から3000年以上前の人物で、当然その頃には仏教も道家もない。仏教や道家が
提唱された後にも、出家隠遁を本旨とする仏教や道家の教理に即して「聖人」と
見なされているわけではない。特に道家の荘子や列子は伯夷叔斉が権力欲を完全に
捨て去っていたわけではない点を強く批判し、法家の韓非にいたっては両兄弟が
餓死したことを「不労の罪で処刑された」などと寓話で暗に揶揄してもいる。

伯夷・叔斉は純粋に「儒家の聖人」である。「治世には仕官を志すが、乱世には仕官
も絶って世を避ける(論語)」という、中庸に適った儒家思想の実践者でこそある。

儒家の中庸志向の模範となる人物であればこそ、伯夷・叔斉のあり方こそは、著しく
中庸を欠いている現代の人間には到底受け入れられない。隠遁出家を堂に入らせよう
とする道家や仏教の教理はまだ受け入れられたとしても、士官を志す含みを残した
ままで隠遁を決め込んでいたそのあり方が、もはや現代人には意味不明である。

しかもそれでこそ、儒家の模範的な聖人ともされている。儒家の聖人であればこそ、
自らが世俗で善行を為す上での模範ともなるわけで、伯夷・叔斉を聖人として受け入れ
られるか否かが、自らが世俗での善行を為せるか否かの決定的なバロメーターともなる。

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008 2021/07/23(金) 11:26:01 ID:Q0nWJbbcfQ
霧島「真面目にそんなこと考えてんのかい? だって俺たちガチホモなんだよ?」

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