俺の知り合いに、良寛好きの論語嫌い(自力仏教好きの道徳嫌い)の人間がいるが、
論語の登場人物である子路と、良寛の間に共通点を見出すとは、なかなか興味深い見解だな。
二人に共通するのは、旺盛な身分意識の高さじゃなかろうか。
衛国で官人として殺害されたときに、子路は君子としての身分の象徴である「冠」を脱がないことに
こだわり続けていたという。これと同じような逸話が、漢の高祖劉邦にもあって、まだ冠なんか
かぶらなくても構わないような小役人の頃から、自ら竹の子の皮で冠のモデルを作って、職人に
その通りに作らせたり、始皇帝の行列を見て「自分もあんな風になりたいなあ」と言ったともいう。
(項羽は「あいつの位を奪ってやる」と言ったという。)前者は「君子階級となったからには冠を被らなければ」
という身分意識の表れであり、後者もまた「ただの卑人ができるのは皇帝をうらやましがることぐらい」
という身分意識の表れであり、いずれもが自らの身の程に即した分のわきまえのうまさの証拠となっている。
罪人と間違えられて申し開きしなかった良寛のあり方も、出家者としての身分意識の高さの表れでこそある。
子路や劉邦が、官人や卑人としての身分意識の高さを披露したのに対し、良寛は出家者としての身分意識の高さを示した。
どんな立場であるのであれ、身の程をわきまえる人間というのはつつがなく、その道に即して大成するもの。
良寛好きで論語嫌いの件の知り合いたるや、自力仏教好きでも自らは出家せず、内縁の妻のヒモとして
道楽三昧の遊び人でいるもんだから、妻の両親からの結婚の承諾も得られずにいる。己の身の程をわきまえない
人間ってのは、何をやっても中途半端止まりで、身の程知らずな物言いが人からの怒りを買うこともしばしば。
自らの身の程をわきまえるためにこそ、自らを最も厳しい批判の目で客観視しておく勇気が必要になる。その勇気がない
人間こそは、身の程もわきまえないままに他人への誹謗ばかりを口走ったりするもんだ。それは決して自らの大成にも
結び付かないことだから、「己に有してしかるのちにこれを人に求む(大学・九章)」ということが大事だといえる。
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