「地獄」という観念の提唱も、古代オリエントのうちのシュメール文明にまで
遡るらしいが、主要な信教はだいたい地獄を引き合いに出すことを通例としている。
仏教における浄土と地獄の描写、イスラム教における天国と地獄の描写などが
決定的に分かたれているのに対し、キリスト教は天国の描写のほうが定かでない。
金銀財宝で飾られているだとか、何度でも処女膜が再生する少女と姦淫できるだとかの、
えげつないながらにも具体的な浄土や天国の描写が仏教やイスラム教では行われているのに対し、
キリスト教には天国の具体的な描写がない。ヨハネ黙示録における最後の審判時の描写なども、
天国というよりはむしろ地獄の到来のようであるし、ダンテの「神曲」における天国の描写なども、
信仰に根ざして昇天できたとされるキリスト教徒の聖人との会話などが記されるばかりで、
キリスト教に特有の、具体的な天国の描写などが示されているわけではない。
故に、キリスト教には始めから地獄しかない。「具体的な天国」というのは完全に
形而上にあるとされ、形而下の具体的な事物で天国を描写するのが憚られたからこそ、
キリスト教は具体的には地獄しか取り扱ったことがない。アテン信仰において「光明」として示された
「唯一神」が具体的にどのようなものであるのかを一切察しようとすることもなく、これまでやってきた。
インド人や中東人は、3000年以上の昔から本格的な富を得ていた。
その富に基づいて具体的な天国や浄土の描写を行ってもいたわけだが、
古代の西洋人はといえば、そこまでにも恒常的な富を享受できていたわけではないし、
自分たちの性向からも、富に飽き足りるということまではできなかった。だから、
自分たちにとっての具体的な天国のあり方を、どこまでも棚上げにし続けたのだった。
天国も浄土もなく、ただ地獄しかない状態で、できる限りまだ見ぬ富を
貪り続けていくように信者にけしかけたのが、本来のキリスト教だったといえる。
返信する