地方に逃げ延びた秦氏の主要勢力のうちでも、朝廷の権限が及ぶ地域に落ち伸びた秦氏は、
被差別部落としての扱いを受けるなどの運命に見舞われたが、土佐国はあまりにも山地が狭隘すぎて、
その山間にまでは朝廷の権限が及ばなかったため、その山間の長岡(今の高知県大豊町付近)に
逃げ延びた秦氏が、また新たな勢力を身に付け始めるに至った。これが「長宗我部氏」の起源である。
土佐藩郷士は、この長宗我部の流れを汲む勢力であり、とうてい士人として扱うに足らないほどにも
世間知らずで俗物然としたその性格が、江戸期に入封した山内氏にも忌み嫌われて、正規の士族としての
扱いを江戸時代の間、ずっと拒絶され続けてきた。幕末における土佐藩郷士の暗躍は、その鬱屈こそを
原動力としている所もあるが、だとした所で郷原であることにも違いはなく、私利私欲のためには他者を
平気で蹴落としもするその残忍さが「いろは丸事件」などにおいて発揮され、多くの人々からの激烈な
怨みや怒りを買い、龍馬や慎太郎を含む土佐藩郷士は、幕末期にまるで虫けらのように殺され尽くして、
明治以降には、公権力者としてそれほど大きな勢力を擁することもできなかった。
しかし、その郷原としての性格は、龍馬の暗躍ありきで国家権力を掌握することができた薩長藩閥勢力や、
士族ではなく商人としての振る舞いに徹したために生き延びられた、岩崎弥太郎の興した三菱などに引き継がれ、
郷原としての体質だけがまるで亡霊のようにして、近現代の日本の権力機構にも巣食ったままでい続けている。
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