んなこたーない。
ただ聖人には聖人が、賢人には賢人が、そして莫迦には莫迦が付いて行っただけのことだ。
やはり、
>>10のようにキリスト教を「必要悪」だと思い込んでいる人間が多いから、
多少は問題性を感じることがあっても、キリスト教という存在に、一定以上に深刻な
問題意識までを抱こうとする人間が極めて少数に止まっているのだろうと思われる。
科学や無宗教の人文学が幅を利かしている昨今、まるで「信教」はもはや必要がなくなったかのように
すら思われているが、じゃあ科学や洋学上の人文学が、人々の生活規範までも十分に司っているのかといえば、
そんなことはない。洋学はただ、人々の欲望をどこまでも際限なく叶え続けることだけを目的とした「道具学」
なだけであり、人間たち自身がどのようであるべきかを十分に示している指針などであるわけではない。
それでは、人々の生活規範や活動規範の拠り所になるものが、キリスト教以外には存在しないのかといえば、
全くそんなこともない。あらゆる信教のうちでも、最も劣悪な生活規範や活動規範を提供するものこそは
キリスト教であって、そこにこそ、人類の存亡をも脅かすほどの、粗雑に過ぎる規範があるのである。
キリスト教の生活規範や活動規範を拠り所にする所にこそ、「人類の滅亡」という将来までもが約束されている。
昔は人々が、仏教や儒学やその他の優良な教学に規範を依拠する所が大きかったから、人類全体としても存続を
保てて来たわけだが、近代以降には、欧米人による世界侵略を通じて、キリスト教が全世界の人間精神を
束縛し始めるようになったものだから、人類全体が滅亡の危機にまで晒さるようになってしまったのである。
返信する