ダニング・クルーガー効果 馬鹿と未熟な知者と賢者の見分け方
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ダニング・クルーガー効果
Dunning-Kruger Effect
未熟な人々が、自身の能力や技能を実際よりも高く評価する傾向。
・能力の低い人々は、知識と経験に乏しいため、自分の能力不足を認識することも、
他者が持つ能力を認識することも難しい。
・これは悪循環を生む。能力の低い人々は、能力が低いために自身の能力不足を
認識することができないが、能力不足を克服するためには自身のスキルの現状を
見極めることが必要であり、それこそが彼らに欠けている能力だからだ。
・逆に、能力の高い人々は、自身の能力や技能を低く見積もると同時に、他者の
スキルを過大評価する傾向がある。
・ダニング・クルーガー効果を打ち破るためには、経験の浅い人々に、能力の有無
を見分ける方法を教えると良い。定期的に周囲からの意見や批評を伝え、自己
評価力の向上を促そう。
William Lidwell 他著
「要点で学ぶ、デザインの法則150」より
Dunning-Kruger Effect
未熟な人々が、自身の能力や技能を実際よりも高く評価する傾向。
・能力の低い人々は、知識と経験に乏しいため、自分の能力不足を認識することも、
他者が持つ能力を認識することも難しい。
・これは悪循環を生む。能力の低い人々は、能力が低いために自身の能力不足を
認識することができないが、能力不足を克服するためには自身のスキルの現状を
見極めることが必要であり、それこそが彼らに欠けている能力だからだ。
・逆に、能力の高い人々は、自身の能力や技能を低く見積もると同時に、他者の
スキルを過大評価する傾向がある。
・ダニング・クルーガー効果を打ち破るためには、経験の浅い人々に、能力の有無
を見分ける方法を教えると良い。定期的に周囲からの意見や批評を伝え、自己
評価力の向上を促そう。
William Lidwell 他著
「要点で学ぶ、デザインの法則150」より
コーネル大学の研究で確認されたというこの心理学的効果、
特に>>1図(1)の「井の中の蛙の思い上がり」ばかりが注目されがちだが、
(2)の「未熟なガリ勉小僧のいじけ」と(3)の「真の賢者の余裕」の
実在性が確認されている点も、大変大きな意義がある。
よく知者のあり方として引き合いに出されがちなソクラテスの言葉、
「知らないことを知ってるつもりでいるよりも、知らないことを知らないと知っているほうがかしこい」
は、(1)と(2)を差別化する言葉としては的を射ているが、(3)の存在を見落としている言葉でもある。
「知るを知るとし、知らずを知らずとする、これを知者という」といい、
「知者は楽しむ」「知者は惑わず」という孔子の言葉こそは(3)の存在までをも見据えていて、
最新の心理学研究は西洋のものであるにもかかわらず、東洋の叡智にこそ軍配を挙げている。
特に>>1図(1)の「井の中の蛙の思い上がり」ばかりが注目されがちだが、
(2)の「未熟なガリ勉小僧のいじけ」と(3)の「真の賢者の余裕」の
実在性が確認されている点も、大変大きな意義がある。
よく知者のあり方として引き合いに出されがちなソクラテスの言葉、
「知らないことを知ってるつもりでいるよりも、知らないことを知らないと知っているほうがかしこい」
は、(1)と(2)を差別化する言葉としては的を射ているが、(3)の存在を見落としている言葉でもある。
「知るを知るとし、知らずを知らずとする、これを知者という」といい、
「知者は楽しむ」「知者は惑わず」という孔子の言葉こそは(3)の存在までをも見据えていて、
最新の心理学研究は西洋のものであるにもかかわらず、東洋の叡智にこそ軍配を挙げている。
しかるに、今の世の中は完全に西洋文化が主流、
東洋文化は亜流ないし過去の遺物とされたままの状態。
学校教育も西洋学が主体であり、本式の儒学などは顧みられもしない。
するとどうなっているかというと、大学教授であれ高級官僚であれ医師であれなんであれ、
高学歴な人間ほど知識への自信を持ってはならないという固定観念が根付いていて、
自信のなさ故に他者を見下すような陰湿な態度性格を帯びることとなってしまっている。
>>1の(1)を戒めようとするあまり、(3)まで亡きものにしてしまっているというソクラテスの呪縛。
これが、現代社会の高学歴が頭はいいはずなのにちっとも尊敬するに値しないような
悪ガキ然とした人種ばかりと化してしまっている主因であり、なおかつアメリカの
底辺層のような反知識主義者が知者を忌み嫌う根本原因にもなっている。
東洋文化は亜流ないし過去の遺物とされたままの状態。
学校教育も西洋学が主体であり、本式の儒学などは顧みられもしない。
するとどうなっているかというと、大学教授であれ高級官僚であれ医師であれなんであれ、
高学歴な人間ほど知識への自信を持ってはならないという固定観念が根付いていて、
自信のなさ故に他者を見下すような陰湿な態度性格を帯びることとなってしまっている。
>>1の(1)を戒めようとするあまり、(3)まで亡きものにしてしまっているというソクラテスの呪縛。
これが、現代社会の高学歴が頭はいいはずなのにちっとも尊敬するに値しないような
悪ガキ然とした人種ばかりと化してしまっている主因であり、なおかつアメリカの
底辺層のような反知識主義者が知者を忌み嫌う根本原因にもなっている。
職人の話かな?
要は「今の時代、未熟者の知識人ばかり」ということだ。
これはあくまで俺の私見だが、
人間ってのはいくら勉強しても、自らの蓄えた知識が総合的に
「仁知」として確立されていないようなら、決して賢者にはなり得ない。
アインシュタインなんかも、天才の代名詞として扱われているけども、
同時に賢聖などでは全くなかった俗物の知恵者の代表格ともなっている。
自らが編み出した難解な物理学の理論をどう扱うべきかまでをも体系的に
考えていたわけではなく、成り行きで核爆弾開発の推進にも署名する始末。
大戦後には平和運動などにも参加したようだが、後付けの取り繕いもいいとこ。
マッドサイエンティストとまで行かずとも、仁徳者まで兼ねられなかったのは、
西洋人の学術姿勢に仁知を重んずる要件が始めから備わっていないから。
特にユダヤ人は政商という、世の中で最も不仁な行為によって財を蓄えては
その金で子供に潤沢な教育を施すことを慣例としているから、天才や秀才で
ありながら不仁を極めるような連中が多数輩出される様相を呈している。
そしてそれが、現代のほぼ全世界における学者や知者のあり方の模範となっている。
学知と仁徳が半ば強制的に分断されているが故に、知識人や高学歴ほど人格的な
問題を抱えている場合が多いのは、この世の不幸の極みといっても過言ではない。
これはあくまで俺の私見だが、
人間ってのはいくら勉強しても、自らの蓄えた知識が総合的に
「仁知」として確立されていないようなら、決して賢者にはなり得ない。
アインシュタインなんかも、天才の代名詞として扱われているけども、
同時に賢聖などでは全くなかった俗物の知恵者の代表格ともなっている。
自らが編み出した難解な物理学の理論をどう扱うべきかまでをも体系的に
考えていたわけではなく、成り行きで核爆弾開発の推進にも署名する始末。
大戦後には平和運動などにも参加したようだが、後付けの取り繕いもいいとこ。
マッドサイエンティストとまで行かずとも、仁徳者まで兼ねられなかったのは、
西洋人の学術姿勢に仁知を重んずる要件が始めから備わっていないから。
特にユダヤ人は政商という、世の中で最も不仁な行為によって財を蓄えては
その金で子供に潤沢な教育を施すことを慣例としているから、天才や秀才で
ありながら不仁を極めるような連中が多数輩出される様相を呈している。
そしてそれが、現代のほぼ全世界における学者や知者のあり方の模範となっている。
学知と仁徳が半ば強制的に分断されているが故に、知識人や高学歴ほど人格的な
問題を抱えている場合が多いのは、この世の不幸の極みといっても過言ではない。
見たことある人間が多いだろうこの風刺画も、
一面においては正しいが、決して普遍的に正しいわけではない。
ろくでもない本ばかり読んでたら、こうなる。
エログロ混じりの俗書だけでなく、真面目に学問知識を記録している書物だろうとも、
そこに世のため人のための知識の善用の指針が備わっていないようなら、
読めば読むほど知識の木偶の坊か、さもなくば悪知恵小僧に成り下がる。
決して、全ての書物がそんなわけではないし、
自分自身に知識を善用していく確かな志しがあるようならば、
悪書の知識までをも使いようのあるハサミに変えることができる。
究極的には、自らの知識こそが荒廃した世の中をも救い上げうる仁知となったが故に、
>>1(1)の無知蒙昧ゆえの思い上がりとは真逆の、根拠ある自信(3)を手に入れる。
だから、勉強するななどということは決してない。
無知蒙昧の思い上がりと、知識の無駄積みによる立往生の両方を超えて、
仁知の持ち主ゆえの泰然さを手に入れるためにこそ勉強すべきだとはいえるんだ。
一面においては正しいが、決して普遍的に正しいわけではない。
ろくでもない本ばかり読んでたら、こうなる。
エログロ混じりの俗書だけでなく、真面目に学問知識を記録している書物だろうとも、
そこに世のため人のための知識の善用の指針が備わっていないようなら、
読めば読むほど知識の木偶の坊か、さもなくば悪知恵小僧に成り下がる。
決して、全ての書物がそんなわけではないし、
自分自身に知識を善用していく確かな志しがあるようならば、
悪書の知識までをも使いようのあるハサミに変えることができる。
究極的には、自らの知識こそが荒廃した世の中をも救い上げうる仁知となったが故に、
>>1(1)の無知蒙昧ゆえの思い上がりとは真逆の、根拠ある自信(3)を手に入れる。
だから、勉強するななどということは決してない。
無知蒙昧の思い上がりと、知識の無駄積みによる立往生の両方を超えて、
仁知の持ち主ゆえの泰然さを手に入れるためにこそ勉強すべきだとはいえるんだ。
その理由はたとえば、ノーベル医学賞受賞者の本庶佑氏が開発した抗ガン剤の
オプジーボですら、副作用による死者が出ていること等からも察せられる。
現代の学問知識は、研究対象があまりにも広範に渡り過ぎているために、
「自分がこうしたから結果は必ずこうなる」という自業自得の領域にまで
必ずしも落とし込めてはいない。故に万全を期したつもりの薬剤開発でも
まだ副作用が生ずるような不安要素を、決して完全にまで拭い去れはしない。
まるで、目の前にいる相手に刀を振り下ろせば、それで斬り殺されて死ぬように、
己れの行いが完全に自明な結果のみを招くという範囲内において、
確実に世のため人のためとなる好影響が発揮される知識のみが仁知となる。
その条件を満たす知識を人並み以上に持ち合わせている人間こそは、
仁知ゆえの泰然さを具えた賢者となる。それが真の知者のあり方なのであり、
無駄に大量の知識や難解な知識を蓄えるよりもまず目指すべきことである。
オプジーボですら、副作用による死者が出ていること等からも察せられる。
現代の学問知識は、研究対象があまりにも広範に渡り過ぎているために、
「自分がこうしたから結果は必ずこうなる」という自業自得の領域にまで
必ずしも落とし込めてはいない。故に万全を期したつもりの薬剤開発でも
まだ副作用が生ずるような不安要素を、決して完全にまで拭い去れはしない。
まるで、目の前にいる相手に刀を振り下ろせば、それで斬り殺されて死ぬように、
己れの行いが完全に自明な結果のみを招くという範囲内において、
確実に世のため人のためとなる好影響が発揮される知識のみが仁知となる。
その条件を満たす知識を人並み以上に持ち合わせている人間こそは、
仁知ゆえの泰然さを具えた賢者となる。それが真の知者のあり方なのであり、
無駄に大量の知識や難解な知識を蓄えるよりもまず目指すべきことである。
俺も近ごろ、ここに出入りしていなかった代わりに、
いろんな古武術なりヨガなりを教わるなどしていた。
(画像は拾い物で、自分が習った所とは無関係)
ろくでもない詐欺師然としたのもいたし、本物もいた。
残念ながら、本物ほど主流からは外れた所で燻っていて、
郊外の小さな道場なり体育館なりで細々とやってたりする。
その本物がやってることといえば、武術である以上は本当に
強さを追求しているし、ヨガ的な技法を伴う場合にはその健康効果も確か。
そして何より、師範に相当する人間が泰然としている。
別に高学歴なわけでも、難解な知識を備えているわけでもないが、
自らの編み出した/受け継いだ技法が社会的な意義を帯びていることに
かけて絶対的な自信があるものだから、性格に表裏がない。
相手の裏の裏の裏をかくような戦法を駆使しても、
それが本人の人格にまで陰を落とすようなことが決してない。
いろんな古武術なりヨガなりを教わるなどしていた。
(画像は拾い物で、自分が習った所とは無関係)
ろくでもない詐欺師然としたのもいたし、本物もいた。
残念ながら、本物ほど主流からは外れた所で燻っていて、
郊外の小さな道場なり体育館なりで細々とやってたりする。
その本物がやってることといえば、武術である以上は本当に
強さを追求しているし、ヨガ的な技法を伴う場合にはその健康効果も確か。
そして何より、師範に相当する人間が泰然としている。
別に高学歴なわけでも、難解な知識を備えているわけでもないが、
自らの編み出した/受け継いだ技法が社会的な意義を帯びていることに
かけて絶対的な自信があるものだから、性格に表裏がない。
相手の裏の裏の裏をかくような戦法を駆使しても、
それが本人の人格にまで陰を落とすようなことが決してない。
もちろん、武道家やヨガ行者は学者ではない。
知識に体術の裏付けが伴っているのは、頭でっかちの学者よりも優れている点だが、
その分だけ知識のほうが高等でも確実でもないという場合がよくある。
正直、現代の医者や医学者以上に博覧強記な武道家やヨガ行者などは皆無だが、
自らの知識の範囲内では、医者や医学者以上に確実に「自業自得」の生理的効果を挙げる場合がある。
それが現代医療以上に有用たり得るだけでなく、単なる知識に止まらない仁知の運用であることが尊い。
アインシュタインは「真に賢い人間は難しいことも分かりやすく話せる」といったが、
本当に確実なのは「真に賢い人間は泰然としている」だ。知識の多少や難易にかかわらず、
泰然としている者は賢く、どこかオドオドとしている者はどこかが愚かだ。
もちろん無知蒙昧の馬鹿野郎の思い上がりである場合は除く。
知識に体術の裏付けが伴っているのは、頭でっかちの学者よりも優れている点だが、
その分だけ知識のほうが高等でも確実でもないという場合がよくある。
正直、現代の医者や医学者以上に博覧強記な武道家やヨガ行者などは皆無だが、
自らの知識の範囲内では、医者や医学者以上に確実に「自業自得」の生理的効果を挙げる場合がある。
それが現代医療以上に有用たり得るだけでなく、単なる知識に止まらない仁知の運用であることが尊い。
アインシュタインは「真に賢い人間は難しいことも分かりやすく話せる」といったが、
本当に確実なのは「真に賢い人間は泰然としている」だ。知識の多少や難易にかかわらず、
泰然としている者は賢く、どこかオドオドとしている者はどこかが愚かだ。
もちろん無知蒙昧の馬鹿野郎の思い上がりである場合は除く。
笠地蔵ほど癖のある人間をうまくあしらえる事のできる人間とは、なる程、賢者である。
こちらから教わりに行っている以上は、自分のほうが礼を尽くす。
教わってみた結果ニセモノだと判明しても、その場では適当にあしらって、後はそれっきり。
ニセモノはこの画でいう所の「世の中」にスッポリと収まりきってるような連中だし、
賢人聖人はやっぱり、今の世の中なんかには収まりきらないような威厳の大きさを帯びている。
本人たちがこの図に基づくような認識を確立しているわけでなくとも、なんとなくぐらいには
こういった事実関係を察知していて、それが自ずと自信の大きさや無さにも繋がっている。
人にモノを教える上での態度はといえば、むしろニセモノのほうがいかにも厳格らしい。
なぜそうするのか、そうと言えるのかといった根拠が曖昧であることを補うかのように、
自分が言ってることややってることに説得力を持たせるための緊張感を帯びる。
結果、師弟の礼なども四角四面にこわばったものとなり、教えたことができてない、
覚えられてない徒弟を見下したり馬鹿にするような態度までもが散見されることとなる。
賢聖が人に教える態度はといえば、やはり基本的には余裕綽々としている。
礼節を全く否定するわけではないが、師弟関係を円滑化するための道具程度に見ている。
自分自身が偉大であるというよりは、自分が身につけている知恵や技法こそが
偉大なものであるという認識があるものだから、泰然としながらおごり高ぶることもない。
厳しさという点では肩透かし過ぎて、そこから偽物だなどと勘違いする人間すらいるようである。
教わってみた結果ニセモノだと判明しても、その場では適当にあしらって、後はそれっきり。
ニセモノはこの画でいう所の「世の中」にスッポリと収まりきってるような連中だし、
賢人聖人はやっぱり、今の世の中なんかには収まりきらないような威厳の大きさを帯びている。
本人たちがこの図に基づくような認識を確立しているわけでなくとも、なんとなくぐらいには
こういった事実関係を察知していて、それが自ずと自信の大きさや無さにも繋がっている。
人にモノを教える上での態度はといえば、むしろニセモノのほうがいかにも厳格らしい。
なぜそうするのか、そうと言えるのかといった根拠が曖昧であることを補うかのように、
自分が言ってることややってることに説得力を持たせるための緊張感を帯びる。
結果、師弟の礼なども四角四面にこわばったものとなり、教えたことができてない、
覚えられてない徒弟を見下したり馬鹿にするような態度までもが散見されることとなる。
賢聖が人に教える態度はといえば、やはり基本的には余裕綽々としている。
礼節を全く否定するわけではないが、師弟関係を円滑化するための道具程度に見ている。
自分自身が偉大であるというよりは、自分が身につけている知恵や技法こそが
偉大なものであるという認識があるものだから、泰然としながらおごり高ぶることもない。
厳しさという点では肩透かし過ぎて、そこから偽物だなどと勘違いする人間すらいるようである。
オプジーボが実際にガン治療で多大な効果を挙げている程度には、
現代の学術知識も有用なわけだが、一方で副作用による死者が出たりも
している程度には不安要素があり、それ故に仁知とまでは言えない。
漢方医学は、副作用がほんの少しでも生ずるような施療は全て失敗とみなして排除する。
それ故、西洋医学ほど劇的な効能が期待できるわけではないが、純粋に仁知たる。
「医は仁術」とは、こういった古来の東洋的な医療姿勢にのみ当てはまることであり、
現代の医療に必ずしも当てはまるものではない。多大な医療費負担で国を借金まみれに
していたりすることも不仁のうちだが、大元の医学知識自体もまた仁知とは限らない。
医者が高給取り故に態度がデカかったり、副作用があるといえども眼前の難病を治療
できていることを根拠に自信を蓄えていたりすることがあるわけだが、これらも決して
仁知の持ち主ゆえの泰然さではない。それ故どこか薄汚い様相を帯びているものである。
医療の場にすら賢聖とまで呼べるような人間がいないのは、現代特有の事象であるといえる。
現代の学術知識も有用なわけだが、一方で副作用による死者が出たりも
している程度には不安要素があり、それ故に仁知とまでは言えない。
漢方医学は、副作用がほんの少しでも生ずるような施療は全て失敗とみなして排除する。
それ故、西洋医学ほど劇的な効能が期待できるわけではないが、純粋に仁知たる。
「医は仁術」とは、こういった古来の東洋的な医療姿勢にのみ当てはまることであり、
現代の医療に必ずしも当てはまるものではない。多大な医療費負担で国を借金まみれに
していたりすることも不仁のうちだが、大元の医学知識自体もまた仁知とは限らない。
医者が高給取り故に態度がデカかったり、副作用があるといえども眼前の難病を治療
できていることを根拠に自信を蓄えていたりすることがあるわけだが、これらも決して
仁知の持ち主ゆえの泰然さではない。それ故どこか薄汚い様相を帯びているものである。
医療の場にすら賢聖とまで呼べるような人間がいないのは、現代特有の事象であるといえる。
特に、アメリカの底辺層あたりに多いとされる反知性主義者たち。
キリストの教えも天動説も進化論の否定も本当は間違っているのかもしれないが、
それを知ったからといって何になる? >>8画の読書家のように打ちひしがれて、
>>1図(2)の状態のイジケ野郎になるだけじゃないかと開き直って(1)に留まり続ける。
それは、欧米には(3)に相当するような知識人が1人もいないからである。
地位や金を得たから自信を得ても、知識を得たからといって自信を得ることはない。
知識自体は余計に自信を損ねるようなものばかりなのだから、それならいっそのこと
勉強などするよりNFLかNBAかMLBのスターにでもなったほうが上等じゃないかと。
「E=mc^2は守備範囲を駆け回らない(ロサンゼルス・タイムズの記事)」というわけで、
むしろ知性など最低限に抑えたままでの社会的な栄達のほうをより追い求めて行く始末。
どちらも、おかしい。知識を得たからといって余計に自信をなくす者と、
そんな姿を見て無知を開き直る者と、両方ともがろくでもないことには変わりない。
欧米社会にはその2つしか選択肢がなかったのだろうが、全世界的にはそんなことはない。
仁知の泰然さを歴史的に知っている者までもが、知らぬ者たちの悪習に迎合させられて
劣化の一途を辿っている現状などを決して良しとせず、むしろそのような状況を
ひっくり返すぐらいの心意気を持って勉学精進に励むべきである。
キリストの教えも天動説も進化論の否定も本当は間違っているのかもしれないが、
それを知ったからといって何になる? >>8画の読書家のように打ちひしがれて、
>>1図(2)の状態のイジケ野郎になるだけじゃないかと開き直って(1)に留まり続ける。
それは、欧米には(3)に相当するような知識人が1人もいないからである。
地位や金を得たから自信を得ても、知識を得たからといって自信を得ることはない。
知識自体は余計に自信を損ねるようなものばかりなのだから、それならいっそのこと
勉強などするよりNFLかNBAかMLBのスターにでもなったほうが上等じゃないかと。
「E=mc^2は守備範囲を駆け回らない(ロサンゼルス・タイムズの記事)」というわけで、
むしろ知性など最低限に抑えたままでの社会的な栄達のほうをより追い求めて行く始末。
どちらも、おかしい。知識を得たからといって余計に自信をなくす者と、
そんな姿を見て無知を開き直る者と、両方ともがろくでもないことには変わりない。
欧米社会にはその2つしか選択肢がなかったのだろうが、全世界的にはそんなことはない。
仁知の泰然さを歴史的に知っている者までもが、知らぬ者たちの悪習に迎合させられて
劣化の一途を辿っている現状などを決して良しとせず、むしろそのような状況を
ひっくり返すぐらいの心意気を持って勉学精進に励むべきである。
あるいは、欧米流の知者たちは、
知者が自信を持つことを「宗教的」として戒めているかも知れぬ。
キリスト教という、世界で最も無知蒙昧なカルトを相手にし続けて来たが故に、
自信すなわち馬鹿の思い上がりであるとまで思い込んで、
決して自分たちはそのようであってはならないと決め込んでいる。
実際、知者の悠然さを謳う孔孟の教えが「儒教」として中国や朝鮮で猛威を奮ったこともあり、
>>1の(3)がいつのまにか(1)にすり替わってしまうようなこともあり得なくはない。
しかし、根本的には(1)と(3)は全くの別物であるし、自らの知識が完全な自業自得の範囲で
世のため人のための好影響をもたらす仁知であることが確認できている場合に限って
自信を持つことを固く守り通していれば、そのような事態に陥ることは避けられる。
自らの知識が確かなものであり、なおかつ紛う方なき仁知であることを確認するのは
二度手間となるわけだから、怠惰では務まらない。つまり知者は怠惰であってはならない。
知者でいながら陰湿であるような人間は漏れなくニート未満の怠け者と見て間違いない。
知者が自信を持つことを「宗教的」として戒めているかも知れぬ。
キリスト教という、世界で最も無知蒙昧なカルトを相手にし続けて来たが故に、
自信すなわち馬鹿の思い上がりであるとまで思い込んで、
決して自分たちはそのようであってはならないと決め込んでいる。
実際、知者の悠然さを謳う孔孟の教えが「儒教」として中国や朝鮮で猛威を奮ったこともあり、
>>1の(3)がいつのまにか(1)にすり替わってしまうようなこともあり得なくはない。
しかし、根本的には(1)と(3)は全くの別物であるし、自らの知識が完全な自業自得の範囲で
世のため人のための好影響をもたらす仁知であることが確認できている場合に限って
自信を持つことを固く守り通していれば、そのような事態に陥ることは避けられる。
自らの知識が確かなものであり、なおかつ紛う方なき仁知であることを確認するのは
二度手間となるわけだから、怠惰では務まらない。つまり知者は怠惰であってはならない。
知者でいながら陰湿であるような人間は漏れなくニート未満の怠け者と見て間違いない。
あと自分も経験上、医療技術の9割は信用してないな。
心身の健康を保つ為の最大原則の規則正しい生活とか栄養バランスのいい食事やウォーキング、ストレス減らして趣味やメンタルトレーニングなどをまずは徹底すればいいのに病院でやることは(略
つまり、マッサージ師や整体師などの方が断然信用できると言うこと。
心身の健康を保つ為の最大原則の規則正しい生活とか栄養バランスのいい食事やウォーキング、ストレス減らして趣味やメンタルトレーニングなどをまずは徹底すればいいのに病院でやることは(略
つまり、マッサージ師や整体師などの方が断然信用できると言うこと。
信用できるというか、マッサージや整体行為とかヨガやいいカウンセリングの方が断然に健康維持に貢献すると思う。
医者は病気の専門家であって、健康の専門家ではないからな。
科学者も事物の客観的な研究者であって、人間の主観の研究者ではない。
故に善因楽果の自業自得の法則も、人並み以上にわきまえられてない場合がザラにある。
そういう人間をいくら雲上の存在として称えても、ろくなご利益もなく、
保護負担で常人のほうが苦役を強いられることとなる。その事実一つだけを見ても、
解釈の違いどころでは済まない人の力量の有無を知り尽くすことができる。
今すぐ為になる相手でないだけでなく、これからも為になるめどは立たない。
科学者も事物の客観的な研究者であって、人間の主観の研究者ではない。
故に善因楽果の自業自得の法則も、人並み以上にわきまえられてない場合がザラにある。
そういう人間をいくら雲上の存在として称えても、ろくなご利益もなく、
保護負担で常人のほうが苦役を強いられることとなる。その事実一つだけを見ても、
解釈の違いどころでは済まない人の力量の有無を知り尽くすことができる。
今すぐ為になる相手でないだけでなく、これからも為になるめどは立たない。
アインシュタインなんて、別に人格的に優れてた
わけでもないのは解釈するまでもなく明らかなことだし、
「舜も人、我も人なり(孟子)」といい、どんなに偉大な 歴史上の人物といえども
別格扱いを決め込んで近づくことすら諦めるようなことがないようにするのは、徳目の一つでもある。
だいたい、仁知の会得者や実践者であるが故に偉大であるような人物は、
「俺とおまえは別格なんだぞ」などという差別意識を撒き散らすような真似は決してしないし、
周囲の人間がそのような雰囲気を作り出すことも極力拒む。できることなら誰にでも
自分並みの境地に登って来て欲しいと願っていて、自らの知恵や技法を伝承することにも惜しみがない。
残念ながら、そういう事例は今の世の中では大変少ない。
学歴の高さ故に上級を決め込むような連中はもちろんのこと、市井で国家資格でもないような
ヨガや武道の先生を名乗っているようなだけの人間でも、まず「師の威厳」というものを形式的に
塗り固めることばかりに注力して、それに乗ってこないような人間は始めから排除しようとする始末。
「去る者は追わず、来る者は拒まず」という達者の姿勢は、教わる側にとっては取っ付き易いものだが
現実にそれを守れるほどよく出来た先生もそう多くはない。まず自らの知恵や技能が仁知として
確立されているのでなければ、どこかの誰かを傷つける可能性があるが故に、そうでいられもしないのだ。
わけでもないのは解釈するまでもなく明らかなことだし、
「舜も人、我も人なり(孟子)」といい、どんなに偉大な 歴史上の人物といえども
別格扱いを決め込んで近づくことすら諦めるようなことがないようにするのは、徳目の一つでもある。
だいたい、仁知の会得者や実践者であるが故に偉大であるような人物は、
「俺とおまえは別格なんだぞ」などという差別意識を撒き散らすような真似は決してしないし、
周囲の人間がそのような雰囲気を作り出すことも極力拒む。できることなら誰にでも
自分並みの境地に登って来て欲しいと願っていて、自らの知恵や技法を伝承することにも惜しみがない。
残念ながら、そういう事例は今の世の中では大変少ない。
学歴の高さ故に上級を決め込むような連中はもちろんのこと、市井で国家資格でもないような
ヨガや武道の先生を名乗っているようなだけの人間でも、まず「師の威厳」というものを形式的に
塗り固めることばかりに注力して、それに乗ってこないような人間は始めから排除しようとする始末。
「去る者は追わず、来る者は拒まず」という達者の姿勢は、教わる側にとっては取っ付き易いものだが
現実にそれを守れるほどよく出来た先生もそう多くはない。まず自らの知恵や技能が仁知として
確立されているのでなければ、どこかの誰かを傷つける可能性があるが故に、そうでいられもしないのだ。
アインシュタインの理論も核爆弾による大量虐殺の原動力となったし、
オプジーボも望んでではないとはいえ副作用による死者を出した。
ある側面においては核エネルギーやガン治療など、人類史級の
功績もあったといえども、致命的な落ち度もまたあったわけだ。
それを黙認してるのが現代の学術姿勢だし、特に科学研究に関しては
功罪相半ばすることすらをも認めて来たことが、近現代の突出的な文明発展の
原動力ともなって来たが故に、神格化して批判を認めないような人間も多い。
しかし、どんなに神聖不可侵な領域として祭り上げたりしたところで、
仁知でないものは仁知ではない。人々を救い栄させる度合いがどんなに大きくとも、
一方で誰かを傷付けたり死なせたりしてる以上は仁知たり得ず、たり得ないが故に
そのような知見の持ち主の人格や責任意識の高さを保証することもない。
砂上の楼閣の権威である自覚が潜在的にはあるが故に、
責任逃れの能力までもが人一倍長けるようなことともなる。
オプジーボも望んでではないとはいえ副作用による死者を出した。
ある側面においては核エネルギーやガン治療など、人類史級の
功績もあったといえども、致命的な落ち度もまたあったわけだ。
それを黙認してるのが現代の学術姿勢だし、特に科学研究に関しては
功罪相半ばすることすらをも認めて来たことが、近現代の突出的な文明発展の
原動力ともなって来たが故に、神格化して批判を認めないような人間も多い。
しかし、どんなに神聖不可侵な領域として祭り上げたりしたところで、
仁知でないものは仁知ではない。人々を救い栄させる度合いがどんなに大きくとも、
一方で誰かを傷付けたり死なせたりしてる以上は仁知たり得ず、たり得ないが故に
そのような知見の持ち主の人格や責任意識の高さを保証することもない。
砂上の楼閣の権威である自覚が潜在的にはあるが故に、
責任逃れの能力までもが人一倍長けるようなことともなる。
日本武道が、戦場でより強力である場合が多い槍薙刀や弓矢ではなく
刀の修練を第一義としているのも、刀が基本的に護身用の武具だからである。
合気道技法のような徒手の護身術以上に、刀の使用を要求されるような場面こそは
「護身の最前線」であり、さらにもう一歩踏み出せば攻撃に転じられる境目に位置する。
故に、人をより殺傷するか、最低限の被害に止められるかの加減具合を読み取る修練ともなる。
武芸のような殺人術と言えども、そのような点で仁知の修養に貢献することはできる。
一方で、難病治療のための薬剤開発のようないかにも仁術らしい分野といえども、
やりようによっては不仁となる。副作用による死者を出す場合だけではなく、
開発に費用がかかり過ぎて国の財政を傾けるような場合にも、やはり不仁となり得る。
日本武道が銃砲の取り入れられた戦国時代以降にも、素朴な刃物系の武器の修練を
主体とし続けたのも、軍産複合体の強大化による財政の圧迫を牽制してのことである。
財政なんて武芸者や学者がいちいち気にする必要もないことだろうと思われがちだが、
そこまで配慮ができてこそ仁知たるのであり、仁知の持ち主たるためには必要なことである。
刀の修練を第一義としているのも、刀が基本的に護身用の武具だからである。
合気道技法のような徒手の護身術以上に、刀の使用を要求されるような場面こそは
「護身の最前線」であり、さらにもう一歩踏み出せば攻撃に転じられる境目に位置する。
故に、人をより殺傷するか、最低限の被害に止められるかの加減具合を読み取る修練ともなる。
武芸のような殺人術と言えども、そのような点で仁知の修養に貢献することはできる。
一方で、難病治療のための薬剤開発のようないかにも仁術らしい分野といえども、
やりようによっては不仁となる。副作用による死者を出す場合だけではなく、
開発に費用がかかり過ぎて国の財政を傾けるような場合にも、やはり不仁となり得る。
日本武道が銃砲の取り入れられた戦国時代以降にも、素朴な刃物系の武器の修練を
主体とし続けたのも、軍産複合体の強大化による財政の圧迫を牽制してのことである。
財政なんて武芸者や学者がいちいち気にする必要もないことだろうと思われがちだが、
そこまで配慮ができてこそ仁知たるのであり、仁知の持ち主たるためには必要なことである。
自らの知恵や技能を仁知たらしめる条件は、言葉にしてみれば簡単なものだ。
「人を死なせるよりは生かし、窮乏させるよりは栄えさせる」
しかし、この条件を常日ごろから必ず守り通すのは至難の業だし、
知恵や技能のほうがより高度なものであればあるほどより難儀ともなる。
相対性理論を純然たる仁知として運用できた人間などは未だこの世に皆無だし、
あまりにも難解すぎて「理解できるぐらいならアインシュタインみたいな
変人であっても仕方がない」という免罪符にすらなる始末。
ただ単に頭がいいだけであることが、仁者であることよりも偉大扱いされる不始末。
これはいかなる場合においても世の中から排除すべきことである。
もちろん頭が良くて仁者でもあるのが一番だが、頭が良くても不仁であるぐらいなら、
頭が悪いほうがまだマシであるぐらいに考えられるよう戒めるべきである。
「人を死なせるよりは生かし、窮乏させるよりは栄えさせる」
しかし、この条件を常日ごろから必ず守り通すのは至難の業だし、
知恵や技能のほうがより高度なものであればあるほどより難儀ともなる。
相対性理論を純然たる仁知として運用できた人間などは未だこの世に皆無だし、
あまりにも難解すぎて「理解できるぐらいならアインシュタインみたいな
変人であっても仕方がない」という免罪符にすらなる始末。
ただ単に頭がいいだけであることが、仁者であることよりも偉大扱いされる不始末。
これはいかなる場合においても世の中から排除すべきことである。
もちろん頭が良くて仁者でもあるのが一番だが、頭が良くても不仁であるぐらいなら、
頭が悪いほうがまだマシであるぐらいに考えられるよう戒めるべきである。
君の言ってることは交通事故で子供達が死ぬから車は無い方がいい、突き詰めれば人間の肉体が殺人をしたり皆殆どが病苦などで死んで行くから子供は作るなってことにもなるよ。
刀を肯定してる意味もよく解らないけど、現代チョンマゲして腰に刀をブラ下げて街を歩いてたら笑われるし銃刀法違反で逮捕されるよ。
アインシュタインに対する嫌悪が凄いみたいだけど「あっかんべー」の写真のせいなのかな?彼自身も「私は天才ではありません。ただ、人よりも長く一つのことと付き合ってきただけです」て言ってるじゃん?
そもそも核兵器投下の指示をしたのも実行したのも別の人なのに君はバカなのかな?だからマシなんだろう。
刀を肯定してる意味もよく解らないけど、現代チョンマゲして腰に刀をブラ下げて街を歩いてたら笑われるし銃刀法違反で逮捕されるよ。
アインシュタインに対する嫌悪が凄いみたいだけど「あっかんべー」の写真のせいなのかな?彼自身も「私は天才ではありません。ただ、人よりも長く一つのことと付き合ってきただけです」て言ってるじゃん?
そもそも核兵器投下の指示をしたのも実行したのも別の人なのに君はバカなのかな?だからマシなんだろう。
※29
>君の言ってることは交通事故で子供達が死ぬから車は無い方がいい、
>突き詰めれば人間の肉体が殺人をしたり皆殆どが病苦などで死んで行くから子供は作るなってことにもなるよ。
実際、日本の交通量は今の5分の1以下が適正だと思ってるし、
親に産んでもらったことを感謝できるほど幸福な子供を生み育てる
自信がないのなら、みだりに子供などを作るべきではないとも思っている。
完全なる根絶とかの、極端から極端への振り切れが現状維持以上の弊害を
もたらすのもしれているのだから、それは仁者の考えであるとは言えない。
>アインシュタインに対する嫌悪が凄いみたいだけど〜
あれが歴史的な人物であるのは間違いないし、天才ではありません云々もただのリップサービスでしかない。
そもそも一つのことを長く考え続けられる能力こそが天才の素養であるにも違いないのだから。
ただ、それらの事実を認めた上で、やはり神聖不可侵な偉人扱いまでするのはおかしいと言っている。
理論的な考究が難解至極すぎるが故に、十分な仁徳が伴わないのはある面では仕方のないことだが、
それならば凡才であっても修善に撤せられているような人間の上にまで置くべきではない。
>君の言ってることは交通事故で子供達が死ぬから車は無い方がいい、
>突き詰めれば人間の肉体が殺人をしたり皆殆どが病苦などで死んで行くから子供は作るなってことにもなるよ。
実際、日本の交通量は今の5分の1以下が適正だと思ってるし、
親に産んでもらったことを感謝できるほど幸福な子供を生み育てる
自信がないのなら、みだりに子供などを作るべきではないとも思っている。
完全なる根絶とかの、極端から極端への振り切れが現状維持以上の弊害を
もたらすのもしれているのだから、それは仁者の考えであるとは言えない。
>アインシュタインに対する嫌悪が凄いみたいだけど〜
あれが歴史的な人物であるのは間違いないし、天才ではありません云々もただのリップサービスでしかない。
そもそも一つのことを長く考え続けられる能力こそが天才の素養であるにも違いないのだから。
ただ、それらの事実を認めた上で、やはり神聖不可侵な偉人扱いまでするのはおかしいと言っている。
理論的な考究が難解至極すぎるが故に、十分な仁徳が伴わないのはある面では仕方のないことだが、
それならば凡才であっても修善に撤せられているような人間の上にまで置くべきではない。
>刀を肯定してる意味もよく解らないけど、
これにはちょっと特殊な事情があって、俺は昔、真剣の振り方からかけ離れた現代剣道の剣振りのせいで
肩を20年以上脱臼させたままでいたことがあって、それをヨガ技巧のほか、古来の真剣刀法などに
よっても治癒させて来た経験があるので、剣術こそが自分にとっての命の恩人的な所があるんだ。
現代剣道を、体を壊すような劣悪な技法ルールに改悪したのは、戦後のGHQの指令だ。
主な目的は、剣道家が真剣を使いこなせないようにするためだったようだが、
それにより俺のような、古来の剣術を教わる場合よりも体を悪くする人間が発生した。
知り合いにも剣道やってて首筋を痛めて手術して、麻痺の後遺症が残った人間などがいるし、
現代社会は何もかもが発展していたりするのではなく、ある面においては停滞どころか劣化までしている実例だといえる。
それもこれも、社会の発展を必ずしも仁知の領域にまで落とし込みながら図って来てはいないから。
表面的な発展のためには多少の犠牲はやむないどころか、総合面で昔以上に劣化することすら非としない。
だから江戸時代にも招かれたことのない、少子高齢化みたいな問題までもが発生してもいる。
これにはちょっと特殊な事情があって、俺は昔、真剣の振り方からかけ離れた現代剣道の剣振りのせいで
肩を20年以上脱臼させたままでいたことがあって、それをヨガ技巧のほか、古来の真剣刀法などに
よっても治癒させて来た経験があるので、剣術こそが自分にとっての命の恩人的な所があるんだ。
現代剣道を、体を壊すような劣悪な技法ルールに改悪したのは、戦後のGHQの指令だ。
主な目的は、剣道家が真剣を使いこなせないようにするためだったようだが、
それにより俺のような、古来の剣術を教わる場合よりも体を悪くする人間が発生した。
知り合いにも剣道やってて首筋を痛めて手術して、麻痺の後遺症が残った人間などがいるし、
現代社会は何もかもが発展していたりするのではなく、ある面においては停滞どころか劣化までしている実例だといえる。
それもこれも、社会の発展を必ずしも仁知の領域にまで落とし込みながら図って来てはいないから。
表面的な発展のためには多少の犠牲はやむないどころか、総合面で昔以上に劣化することすら非としない。
だから江戸時代にも招かれたことのない、少子高齢化みたいな問題までもが発生してもいる。
あと、刀への愛も実はなんとなく解るよ。自分もバガボンドとか好きだし。
イノベーターと仁智は分けて考えたほうが良いと思ってるよ。
はっきり言って両方、人には必要なものである。どちらも人類の発展には欠かせない素養である。
笠地蔵の言う、目の届く範囲で行使する仁智を望むなら、ここまで大きい集団的進化を人間はするべきではなかったし、狩猟採集生活のままでよかった。
病気や怪我があれば皆で看病して、死者が出たら、皆で弔う生活で十分だっただろう。
しかし人間は生まれ持っての開拓者なんだよ。未踏の地に行きたいし、未知を探求したい、新しいものを作り出したい。
そういう純然な欲求を形にするのがイノベーターなんだ。
笠地蔵はどう思ってるか知らないが、農耕がもたらした功罪も結構な物がある。
農耕のせいで集団が大きくなり、権力構造が明確になって貧富の差が明確になった。
そういう意味では人間の発明で罪の部分が無いものなど無いだろう。
はっきり言って両方、人には必要なものである。どちらも人類の発展には欠かせない素養である。
笠地蔵の言う、目の届く範囲で行使する仁智を望むなら、ここまで大きい集団的進化を人間はするべきではなかったし、狩猟採集生活のままでよかった。
病気や怪我があれば皆で看病して、死者が出たら、皆で弔う生活で十分だっただろう。
しかし人間は生まれ持っての開拓者なんだよ。未踏の地に行きたいし、未知を探求したい、新しいものを作り出したい。
そういう純然な欲求を形にするのがイノベーターなんだ。
笠地蔵はどう思ってるか知らないが、農耕がもたらした功罪も結構な物がある。
農耕のせいで集団が大きくなり、権力構造が明確になって貧富の差が明確になった。
そういう意味では人間の発明で罪の部分が無いものなど無いだろう。
そうだよ、本来は核兵器よりも野菜作るべきなんだよ
でも、地球のアフリカで餓死する人達助けることよりも何も無い火星の荒野を探索をするNASAは何か夢やロマンがあっていいじゃないかと思える
そもそも人間、いまだに完全に理性的な生殖行為ができない時点で動物は超えられていなしきっと欲望も克服できないだろうと
でも、地球のアフリカで餓死する人達助けることよりも何も無い火星の荒野を探索をするNASAは何か夢やロマンがあっていいじゃないかと思える
そもそも人間、いまだに完全に理性的な生殖行為ができない時点で動物は超えられていなしきっと欲望も克服できないだろうと
それでも休日に商業施設とかで見かける家族のいい雰囲気とか小さい子供の可愛らしさ、みんな同じ人間だからささいなことでも親切にして貰った時とか人生っていいものだなって素直に思うよ。
世界的に観たら去年のトランプの親父とキムさんのツーショットとか、これが国境や民族とか超えて人間達のあるべき姿だよなと。
※34
そこでいうイノベーターとやらが、仁知の抑制を全く受けないままでの
やりたい放題を尽くした挙句に行き詰まり、また安定の時代に立ち戻る。
「悪も運に乗じては長ずるも、その悪十成するときはこれを討つ」(兵法家伝書)
とはいえ30に書いた通り、極端から極端に振りきれるのは、それ自体が粗悪の所業。
田沼の濁りを濾過し尽くしても作物が育たないから、多少の濁りは黙認する。
その上で、最低限の安全保障の手綱だけは決して緩めないようにする。
肉食の禁忌なども本職の聖職者に限って守るべきものとする。
一方で、主食は米として肉は副食にするべきだとした孔子の教えだとか、
牛の代わりに格下の羊を供物にしようとした領主を称えた孟子の姿勢だとかの、
過度の肉食を控えようとするあり方ぐらいは万民に倣うよう教科する。
(肉はおかずであってごはんではない程度の認識は持たせる)
どっちはアリでどっちはナシ、仁者はアリでイノベーターだの肉食は厳禁だのの極論ではなく、
程度の問題。少なくとも仁者の側にとってはそのような配慮を持つことが責務となる。
そこでいうイノベーターとやらが、仁知の抑制を全く受けないままでの
やりたい放題を尽くした挙句に行き詰まり、また安定の時代に立ち戻る。
「悪も運に乗じては長ずるも、その悪十成するときはこれを討つ」(兵法家伝書)
とはいえ30に書いた通り、極端から極端に振りきれるのは、それ自体が粗悪の所業。
田沼の濁りを濾過し尽くしても作物が育たないから、多少の濁りは黙認する。
その上で、最低限の安全保障の手綱だけは決して緩めないようにする。
肉食の禁忌なども本職の聖職者に限って守るべきものとする。
一方で、主食は米として肉は副食にするべきだとした孔子の教えだとか、
牛の代わりに格下の羊を供物にしようとした領主を称えた孟子の姿勢だとかの、
過度の肉食を控えようとするあり方ぐらいは万民に倣うよう教科する。
(肉はおかずであってごはんではない程度の認識は持たせる)
どっちはアリでどっちはナシ、仁者はアリでイノベーターだの肉食は厳禁だのの極論ではなく、
程度の問題。少なくとも仁者の側にとってはそのような配慮を持つことが責務となる。
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