人間が自然認識の面で神の呪縛から解き放たれたのは17〜18世紀頃ではなかろうか。
「神性」か「理性」かで思想家たちが懊悩し、「理神論」のような折衷案が生まれた時代。
理神論に端を発した(近代)科学は、神学の一部としてキリスト教文化圏で育まれた。
科学の作法が確立し、知見が蓄積していくに従い、宗教に内在するドグマとの乖離が進み、
やがて袖を分かつに至った。
『ビーグル号の航海に出た頃、ダーウィンは進化についての構想をもっていた
わけではなかった。それどころか「生物は神の創造物」というキリスト教的な
生物観を疑っていなかったのだ。だから、神の意志が関与することなしに生物
が変化するなどということは、もともと思いもよらないことであった。
ところが、彼が航海を通じて観察した事実は、「造物主観」を革命的に変える
ことを要求した。彼の進化論は、生物は神の意志の介在なしにそれ自身で変わ
り得るという認識を前提とし、その変化の原動力は「自然淘汰」であるとする
ものであった。』
(安斎育郎著 「人はなぜ騙されるのか—非科学を科学する」より抜粋)
安斎氏は、ダーウィンと同様の進化論構想を持ちながら生涯心霊主義者を貫いたウォレスを
引き合いにだし、「神の呪縛」の強さを示すエピソードとしている。
どのような「神を想定せずとも説明できる現象」においても、その上位に神の存在を仮定す
ることは可能なんだけれども、そういったアドホックな仮説によって宗教の重要構成要件で
ある「超自然的な神秘性」が希釈されたあとに残るものを、宗教右派はよしとしないだろうね。
問題は、そういった穏健な宗教家の主張をも「宗教とは似て非なるもの」として排除しようと
する原理主義宗教家。
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