「大衆」という概念の消失


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001 2013/01/26(土) 13:36:18 ID:5EXtk5mWu6
バラエティ番組のロケで駅前とか行くと、今って通行人の顔にモザイクが入るだろ。
あれ、なんでだと思う?

かつて、雑踏の中を歩く人々は守られるべきプライバシーを持たず、顔も持たない「大衆」として扱われていた。
そして今。街行く人々は守られるべきプライバシーも個々の顔も持つ「一個人」として扱われている。

高城剛も言っていたが、現代は「大衆」という概念が消失した時代。

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002 2013/01/26(土) 13:39:10 ID:5EXtk5mWu6
高城剛のブログから引用。

マイケルの死は、二十世紀文化が終わる合図であり、
二十世紀最大の発見である「大衆」=マスの終焉であり、ポップがもう時代にとって必要ないという知らせだろう。

http://blog.honeyee.com/ttakashiro/archives/2009/06/29...

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003 2013/01/26(土) 17:46:22 ID:EndxGwy1Eo
単純に肖像権に煩くなっただけでは。
著作権や労働法なんかも時期を同じくして、そうだし。

いずれにせよ、メディアの受信側が多様化して統一した被暗示性が失われたからといって、
大衆という集団が喪失したというのは、
メディア論に限定したとしても些か極論に過ぎると思う。

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004 2013/01/28(月) 23:33:09 ID:OvRha1ZxzQ
>>1は 新か付く方だろ

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005 2013/01/29(火) 17:22:05 ID:AW.UWiyUGM
体臭ではなく、大周でもなく、一生でもなくwwww
「大衆」という概念の誕生を予見したボードレールの詩がある。

大衆なんてせいぜい100年ちょっと昔に生まれたばかりという事実にハッとさせられる。
(ハッとしてGOODは関係ないwwww)

http://poesie.hix05.com/Baudelaire/135passante.htm...

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006 2013/01/29(火) 17:28:49 ID:vgtvFCXOS6
大衆は群衆と化す。

ひどく恐ろしい面も内包しているが、
大衆のなかに身を潜めることで安心できる面もある。

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007 2013/01/29(火) 17:33:48 ID:AW.UWiyUGM
ビートたけしが東日本大震災について述べた以下の発言こそ、これからの時代に大切な発想。


「数字じゃない。この大震災で死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。
でも『1万人』『2万人』と一括りにして考えてしまうと、被災者のことを全く理解できなくなっちゃうよ。
それぞれにそれぞれの 悲しみがある。個人にとっては家族や身内が死ぬことの方がつらい。
その悲しみが1万人、2万人分あるってことなんだ。そう考えれば重さがわかるだろ」。

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008 2013/01/29(火) 17:44:22 ID:AW.UWiyUGM
中田英寿が、「右へならえ」をすれば自分の責任はなくなるからね、と言ったがまさにとおり。

原発問題にしても、いじめ・体罰問題にしても、責任の所在を曖昧にすることにかけて
日本人は天才的なスキルを持ってるからね〜。(と言いつつ、他国がどうかは知らんが)。

出る杭は打たれる
赤信号みんなで渡れば怖くない(これもビートの発言)

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009 2013/01/30(水) 23:07:56 ID:Enmnrw1wGc
最近のトピックで言えば、フジTVの視聴率公開中止。
http://www.best-worst.net/news_asiVGrAp9O.htm...
大衆の娯楽であるテレビが、大衆におもねらない施策をとるというのも時代を象徴している。(初潮ではないwwww)

アリファイトがまだ小6のとき(20年以上昔だが)
「これからは多チャンネル化の時代になる」
と言う話を聞いて、あ、そうなったらみんな見る番組がバラバラになるだろうから
誰もが知っていて、誰からも愛されるスーパースターというのはいなくなるんだろうな
と、漠然と思ったことがある。そして事実、時代はそうなりつつある。

小六にしにこの卓越した先見性!!!!1
これこそアリファイトが明和随一の知性派と呼ばれるゆえんだろう。

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010 2013/03/06(水) 03:33:12 ID:jiqL/p0Y4E
ここら辺の話は、いわゆる「大きな物語の終焉」と絡められるネタだ。

別にマルクス主義のようなご大層なイデオロギーを持ち出さなくても、例えば「お茶の間」というフレーズ。
昭和の時代までは多くの国民が「夕食時にはお父さんが上座で一家みんなでテーブルを囲み、食事を取りながらテレビを見たり会話をしたりする一家団欒の風景」を共有していた。

しかし、今の時代はこの「お茶の間」という概念さえ共有されてなく、各家庭ぞれぞれの「お茶の間」がある。
つまり、一億層中流なんて言葉で国民が画一的に括られた時代はとっくに終わったと言うこと。

これこそ「大きな物語の終焉」だ。

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